大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第32回 第1日目 土山大野の三好赤甫旧跡から水口宿まで

2015年12月15日 09時59分14秒 | 私本東海道五十三次道中記


前回31回目の3日目は「道の駅・あいの土山」から旧街道を辿り、国道一号と合流する土山町大野の信号交差点までの7.2キロを歩きました。そして私たちの東海道五十三次街道めぐりの旅もいよいよ終盤へとさしかかってきました。さあ!迎える32回目の第1日目は50番目の水口宿、第2日目は51番目の石部宿、そして第3日目は中山道との合流地点でもある52番目の草津宿へと歩を進めていきます。

水口城櫓

すでに前回の旅で国境の鈴鹿峠を越えて、伊勢国から近江国へ入ってきました。そして近江国の甲賀市から湖南市そして草津市へと行政地区を変えながら進んで行くのが今回の行程です。

宿場名 宿場の地域 日本橋からの距離      次の宿場への距離
土山 滋賀県甲賀市 110里11町7間(433.2km) 2里25町(10.6km)
水口 滋賀県甲賀市 113里7間(443.8km)      3.5里(13.7km)
石部 滋賀県湖南市 116里18町7間(457.5km) 2里35町54間(11.8km)
草津 滋賀県草津市 119里18町1間(469.3km) 3里24町(14.4km)



第一日目は前回31回目の終着地点の土山町大野の信号交差点脇の赤甫亭みよしの駐車場が出発地点です。この信号交差点で国道1号から右手に分岐する旧街道の細い道筋に入ると、旧徳原村の小さな集落が始まります。集落を進んで行くと道筋の左側の藁葺屋根の家の前に「旅籠東屋跡」の石柱が置かれています。

旧徳原村の集落を300mほど進むと、左手に国道1号の徳原交差点が見えてきます。曲がりくねるように続く旧街道の左右には田畑が広がり、長閑な雰囲気を漂わせています。伊勢から近江に入り、近江路を辿っていますが、どことなく田舎じみた風景がつづきます。
第1日目の行程は旧街道を辿って行きます。車の往来の多い、1号線に沿って歩くよりは街道歩きをしているといった趣を強く感じます。

街道からの景色



旧街道を1.5km強進むと国道1号との合流地点である大野西の信号交差点にさしかかります。路傍右には夜尿症の回復にご利益があるという南向き地蔵が目立たない存在で佇み、大野西交差点の手前左側に松が植えられており、「東海道土山今宿」と刻まれた石碑と「今宿ポケットパークの常夜燈」が置かれています。この辺りが土山町大野の最西端に位置します。

東海道土山今宿の石碑

大野西交差点で国道1号線を横断して左側の県道(以前の国道1号)に入り、水口町今郷と土山町大野の境を流れる稲川を渡ると地名は甲賀市水口町今郷に変ります。

大野西交差点
野洲川遠望
国道1号線

この場所に流れる稻川の上流に「湧水の源」という史跡があります。ここには延宝4年(1676)建立の稲川碑が建てられていますが、工場敷地内のため見学は困難だということです。「稲川碑」は正保4年(1647)水口城城代の山口重成という人が東海道を往来する旅人に飲み水を提供するため掘らせたという功績を讃えて建立されました。また、平安時代の源平合戦で敵の矢を目に受けた平景清がこの地に落ち延び、稲川畔の湧水で目を洗ったところ血涙が止まったと伝わることから、「景清の目洗い水」とも呼ばれています。

水口町に入り、県道(旧1号)をほんの僅か歩き、すぐに右手に折れて「仕事人」という食事処の前の上り坂へ進んでいきます。ゆるやかな坂道を進むと、街道の右側の林の中に「経塚」の案内板が置かれています。平安の昔、この辺りに化け物が出て村人を困らせていました。あるとき伝教大師最澄がこの地を訪れて大般若経を読経したところ、その後は化け物が出ることは無くなったと伝えられています。そして村人がそのお経を土中に埋めた場所と伝わるのがこの経塚です。このまま緩やかな坂道を進んでいくとすぐに道筋は平坦になります。

水口町今郷の家並



少し行くと左側に浄土寺の前に「今在家(いまざいけ)一里塚跡」の標が置かれています。お江戸日本橋から112番目(約440km)、京三条大橋からは13番目(約54km地点)の一里塚跡です。

今在家一里塚
今在家一里塚
お休み処

街道時代にはここよりももう少し東側にあり、塚上には桜が植えられていたといいます。明治初年に撤去、現在は榎を植えた一里塚が復元されています。そして路傍に「馬頭観音」などの石仏群が置かれています。
一里塚に隣接するように、小さなお休み処が置かれています。このお休み処の裏手に男女共用のトイレがあります。

旧街道の道筋はそのまま直進するようにつづいているのですが、街道は一般的にはお寺があればその山門前を通るのが江戸時代の考え方なので、私たちはこのお休み処の角を左へ折れ、浄土寺山門前を通って県道(旧1号)にいったん合流します。

1号線との合流地点


合流地点にさしかかると前方に野洲川の流れが視界にはいってきます。野洲川は滋賀県を流れる淀川水系の一級河川で、琵琶湖への流入河川では最長を誇ります。近江太郎の通称で親しまれています。合流地点の角に司馬遼太郎の「街道をゆく」と題する石碑が置かれています。

県道を50mほど歩くと三叉路の角に高札場跡とお休み処が現れます。お休み処といってもゆっくりと腰を掛けるスペースや椅子などはありません。このお休み処がある場所に今在家の高札場跡が置かれています。

お休み処

そして信号のない三叉路を渡り、その先で右手に分岐する狭い道筋に入っていきます。そんな道筋に入ると静かな雰囲気を漂わせている今郷集落です。今郷集落には古い家が多く残っています。



今郷集落を進んでいくと、また信号のない交差点が現れます。そのまま直進し、宝善寺の前を通り過ぎると道は少し上りになり、左にカーブしながら県道(旧1号)に再び合流します。

宝善寺山門

街道の右側には山裾が旧街道に迫り、左手には野洲川が間近に流れています。街道時代から東海道は右手の山と左手に流れる野洲川に挟まれた狭い場所に穿かれていたことが分かります。

今里の古い家

街道右手には木々に覆われた山が街道側まで迫っています。そしてこの山には巨岩があり、古くから地元の人々はこの巨岩を「岩神」と呼んで信仰していました。岩神は子供の成長にご利益があるとされ、独特の風習が伝えられています。
そんな習わしを記述した案内板が置かれています。

岩神様の案内板

案内板にはこんなことが書かれています。
『祠なくて岩を祭る。この近村の人、生まれし子をこの岩の前に抱き出て、旅人に請うてその子の名を定むをな俗(ならわし)とせり。この他、大石奇岩有り。里人に問うべし。右の方に川あり。水上は土山の奥より出て横田川へ流れ入る。』

現代調に書き直すと「岩神の近隣に住む村人は子が生まれると、母親か親族の者が岩神の前に子を抱いて立ち、東海道を往来する見ず知らずの旅人にお願いして名前を付けてもらっていたのだという。」ということらしいのですが、どういった所以でそんなことをするようになったかまでは書かれていませんが、何とも奇妙な風習です。中には意にそぐわない名を付けられた親もいたのではと……。
 
尚、この場所は寛政9年(1797)の「伊勢名所図会」には絵入りで紹介された名所でとして知られています。ここには「岩神社」と「岩上不動尊参道」の石柱があり、東海道の道は矢印で示されています。

旧街道はほんの僅かの距離ですが、県道(旧1号線)に沿って歩きますが、すぐ右手に分岐する旧街道筋へと入っていきます。
街道沿いには住宅がつづく景色に変ってきます。しばらく行くと街道から少し奥まったところに山門を構える「永福寺」にさしかかります。この永福寺がある辺りが旧新城村の中心だった場所です。宝永2年(1705)再建の永福寺で、阿弥陀如来を中心とする観音・勢至・地蔵の四尊を描く来迎図を寺宝に持っています。この来迎図は昭和59年に水口町(現甲賀市)の文化財に指定されました。



4キロを過ぎたあたりの街道の右側に「八幡神社」の石柱があり、右手に八幡神社の鎮守の森が見えます。
この辺りを新城と呼んでいますが、当社は新城の鎮守様と思われます。街道からも鳥居やお堂、お社が見えます。八幡神社の境内には「新城観音堂」が置かれています。馬頭観音をご本尊として祀り、堂内には水口宿の旅籠や宿役人等が奉納したという2百余りの小絵馬が残っています。

八幡神社
八幡神社

そこから200mほど行くと街道は三叉路となるので、右手へとのびる道へ進んでいきます。その右手へ延びる道を行くと、最近植樹されたような松があるのですが、「松並木」の碑が置かれています。

この辺りから前方になだらかな稜線を描く「水口岡山城址の古城山」が見えてきます。古城山が近づいてきたので、水口宿はもう目と鼻の先です。左手は畑、右手は民家がつづく道筋を進んで行くと、新城の集落へと入って行きます。

水口宿へ入る手前に僅かな距離の坂道(東からは下り坂)があります。昔はこの坂を「すべり坂」と呼んでいたようです。それほど勾配がある坂ではありませんが、その昔は多くの旅人がこの坂で足を滑らせ、転んだのではないでしょうか。

坂を下って行くと街道左側の高い場所に真言宗高野山派の「大師寺」が堂宇を構えています。そしてすぐ先の秋葉北交差点を越えた山川に架かる山川橋を渡ると右側に小さな休憩スペースがある小公園があります。



山川橋を渡ると道筋は下り坂となり、両脇には民家が建ち並び、その一角に水口神社の山車倉があります。そして前方に現れるほんの僅かな登り坂を上ると右側に「冠木門」が置かれています。冠木門が置かれているということはここが水口宿の東見付(東入口)跡です。このあたりは宿場や城下町によく見られる「鉤型」になっていたところで、今もその面影が残っています。

冠木門

さあ!水口宿に入りました。水口宿(みなくちしゅく)は江戸時代に三度の大火に遭い、多大な被害を受けたので、明和7年(1770)に宿場の人達が火除けの神として有名な遠州秋葉山から勧請し、冠木門の北方にある松元寺の奥の地(古城山の東麓)に秋葉神社を建立しました。

お江戸日本橋から数えて50番目、京都三条大橋からは4番目となる水口宿です。天保14年(1843)当時の宿内の距離は東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒という規模でした。

豊臣秀吉が天下を手中におさめた時代、水口岡山城が築かれ、その南側にあった集落が城下町として発展した歴史を持っています。水口宿の大きな特徴である「三筋の道」はその時代に敷設されたといいます。
江戸時代になって東海道が整備されると本陣や脇本陣、問屋場等が置かれ、宿場町として発展を続け、旅人で賑わいました。名物は干瓢をはじめ泥鰌汁・煙管・葛細工等です。歌川広重は東海道五十三次・水口「名物干瓢」の題で、女性らが干瓢の原料であるユウガオを細長く剝いている様子を浮世絵に描いています。

広重の水口の景

東見付を過ぎると道筋はかなり狭くなり、その先の歩道橋のある交差点を過ぎると、道筋は右手へ大きくカーブします。ここ水口の宿はかつては城下町であったのですが、ご城下を歩いているという感じではなく、むしろ宿場町然とした佇まいを見せています。道筋は狭く、宿場町を貫いています。その狭い道筋に沿って、家並みが迫るように連なっています。しかし、古い家並みが多く残っているわけではありません。街道脇の家並みのほとんどは現代的な家がならんでいます。

大きくカーブした道は三叉路にさしかかります。その右側に「ぬし又本店」という漆芸品の店があります。この店と街道を挟んで左側に「脇本陣」があったといいます。案内板がないため所在は判明しません。
そして「本陣跡」の案内板がぬし又本店の向かいの立派な家の路地沿いの竹垣前に目立たない存在で置かれています。案内には本陣は鵜飼伝左ヱ門が営んでいたこと、大きさは普通の家の三倍の大きさだったこと、そして明治2年に明治天皇が宿泊されたのを最後に本陣の役割を終え、その後撤去されたことが記されています。

本陣の案内板

本陣の案内板からさらに100mほど進むと、次の三叉路にさしかかります。その三叉路の中央にはかつて高札場があったことを示すミニチュアの高札場が置かれています。

高札場跡

かつての高札場跡の所で道は左右に分かれています。東海道は左手に進む道筋です。それでは左手へつづく道筋へ入っていきましょう。この辺りの家並みはそれほどの古さを感じませんが、宿場らしい雰囲気を醸し出しています。

宿内の光景

そのまま直進して行くと、街道右手に「御菓子処一味屋」が店を構えています。水口は甲賀忍者の故郷ということで、一味屋では「忍者最中」を販売しています。最中の形状は忍者の巻物を模っています。そして店の向かいの家前に「問屋場跡」の標石が置かれています。この辺りから京町にかけて、江戸時代には旅籠が軒を連ねていたといいます。いまでもほんの僅か面影が残っています。

御菓子処一味屋
問屋場跡の標石

御菓子処一味屋を過ぎると、すぐに次の交差点が現れます。この交差点の右角には本町駐車場がありますが、その角に囃子に合わせて祭袢纏を着た人形が踊りだす「からくり時計」が置かれています。
からくり時計は毎日09:00、正午、15:00、18:00の4回動きます。

駐車場の休憩所
からくり時計
駐車場から見る古城山

この「からくり時計」が置かれている交差点を右手に進むと国の重要文化財指定の観世音が安置されている天台宗の「大岡寺」が堂宇を構えています。大岡寺は白鳳14年(686)行基が大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置して創建したことに始まります。最盛期には16もの坊舎を擁する大寺院だったのですが、天正2年(1574)兵火によって東之坊(本坊)を残して焼失してしまいました。

天正13年(1585)大岡山に岡山城が築城され、東之坊は南方の地頭という地に移転しました。江戸時代の享保元年(1716)になり廃城となっていた岡山城(大岡山)の麓にあたる現在地に堂宇を再建、以来水口藩主加藤家歴代の祈願所となりました。
そして大岡寺の裏手を走る307号線の背後には標高283mの古城山と呼ばれている「大岡山」が控えています。

水口の町の歴史は古く、野洲川に沿ってつづいていた古東海道の時代に甲賀駅舎が置かれ、中世には市が立ち、人や物資の往来で賑わっていました。そして戦国時代に豊臣秀吉は水口が京への入口であることで、この地を重視し、家臣の中村一氏に城を築かせて城下町としました。

秀吉の命を受けた中村一氏は天正13年(1585)、野洲川を見下ろす大岡山に城を築き、山麓の集落を城下町として整備しました。中村一氏は天正18年(1590)小田原攻めの後、駿河国駿府へ転封となり、ここ水口は増田長盛、そして長束正家と城主が変わりましたが、関ヶ原の西軍の敗北で岡山城は落城しました。江戸時代に入り幕府はこの城を廃城にし、水口を幕府の天領(直轄地)にし城下町としてではなく、宿場町に替えました。
そして天和3年(1682)に賤ヶ岳の七本鑓の一人として知られている加藤嘉明の孫の加藤明友が2万石で水口藩を立藩します。そして明友の子の明英は譜代の格式を与えられて、元禄3年(1690)に寺社奉行から若年寄に昇進し、元禄8年(1695)に5000石の加増を受けて下野壬生藩に移封となります。代わって譜代の鳥居忠英が2万石で水口に入封しますが、鳥居家は正徳2年(1712)に加藤家の下野壬生へ移封され、入れ替わりに加藤家が再び水口へ転封しました。この加藤家がその後、代々水口藩主を務め、明治維新まで9代続きます。

水口が江戸時代には「干瓢」が名産品となっていますが、実は加藤家が下野壬生から水口に転封されるときに、手土産に干瓢を持参したことに始まります。現在は水口での干瓢生産は一部の農家で細々とおこなっているにすぎません。やはり日本の干瓢生産の大生産地は栃木県の壬生ということです。

からくり時計」のある交差点を渡ると、左角に古めかしい造りの「いまむら呉服店」が店を構えています。

いまむら呉服店

このままアーケード造りの本町商店街を進んでいきましょう。街道をほんの少し進んで、水口小学校への路地の奥に洋館が一つ建っています。その洋館はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)の設計で昭和3年(1928)に建てられた「旧水口図書館」です。それでは街道から逸れて路地の奥にある旧水口図書館へ進んでいきましょう。

旧水口図書館
旧水口図書館

ヴォーリズは明治38年(1905)に旧八幡商業高校の英語教師として来日し、キリスト教伝道活動をしつつ建築家、事業家として医療、教育、福祉に尽力した方で、近江八幡市にある近江兄弟社を設立した人としても有名です。甲賀市にはヴォーリズが設計した建物がいくつも残されていますが、その一つが旧水口図書館です。

旧水口図書館は二階建てのモダンな建物で、昭和3年(1928)、町の出身の実業家井上好三郎氏がヴォーリズ事務所に設計を依頼し建て、水口市に寄贈したもので、戦前期の建築のなかで、珠玉の小品と評されるものです。見学は第2、第4日曜日の10時~16時のみ



旧水口図書館から再び街道へと戻り、細い道筋を進んでいきましょう。アーケードのある本町商店街を進むと左角に山田書店が店を構える広い通りと交差します。これを右へ行けば日野を経て彦根へ、左に行けば貴生川を経て信楽や甲賀に至る道です。東海道の道筋はこのまま直進しますが、このあたりは普通の民家が多く並んでいます。

少し先へ行くと近江鉄道(略して「近鉄」)の踏切が見えてきますが、東海道は踏切の手前で左右からくる道と合流します。3本の道筋が合流するこの場所にも「からくり時計」が置かれています。
このからくり時計も先ほどと同じ時間に動きます。ということは同じ時間に2か所のからくり時計が動くので、2つのからくり時計の動きを見るためには3時間待たなければなりません。1時間ほど時間をずらして動かすことを考えなかったのでしょうか?

からくり時計

からくり時計を過ぎると、ほんとうに小さな川に橋が架けられています。この橋は「石橋」と呼ばれているのですが、ちょうどこの近くに近江鉄道の水口石橋という名前の駅があります。この水口石橋の駅名はこの可愛らしい石橋がその名の由来となっているのです。

石橋
近江鉄道の踏切

からくり時計を過ぎると近江鉄道の踏切にさしかかります。踏切の左奥に「水口石橋」駅が見えます。踏切を渡り、ほんの少し進むと街道右手に「コミュニティセンター」が現れます。本日の終着地点までは残すところ1キロですが、トイレ休憩を兼ねて立ち寄ることにしましょう。

コミュニティセンター

コミュニティセンターには水口の観光案内と別棟に立派な曳山が展示されています。

曳山
曳山

もし、水口宿内で昼食をとお考えであれば、宿内の旧街道をそのまま直進し、湖東信用金庫(水口支店)の先の最初の角を左へ折れると、「御料理・寿司ふじ吉」があります。手ごろな金額で美味しいお寿司を食べることができます。
ふじ吉
滋賀県甲賀市水口町梅ヶ丘1-9 TEL0748-62-2521
営業時間:昼11:00~14:30、夜17:00~21:30
http://fujiyoshi-kyonoaji.com/

さあ!まもなく第一日目の終着地点の水口城まではほんの僅かな距離です。
江戸時代の東海道は湖東信用金庫水口支店前から右手に折れ、その後幾重にも折れ曲がって道筋がつづいていました。
水口宿が城下町ということに加え、平地に置かれた水口城は東海道が整備された後に築城されたため、お城から遠ざけるように街道の道筋に「曲がり」を作りながら、それまでの道筋の一部変えたと思われます。 

私たちは江戸時代の東海道筋に沿って進んでいきましょう。湖東信金前を右に折れて、突き当たりの花喜米穀の前を左折し、心光寺の前を通って信号のない交差点を渡って直進していきます。そして比較的、道幅のある通りに出たところで、左折して終着地点の水口城址に近い水口体育館の駐車場へと進んでいきます。

水口城址

土山大野からここ水口体育館の駐車場まで7.4キロの行程を歩きました。
第2日目は水口城址を見学後、51番目の石部宿の西見付を過ぎてすぐのJR草津線「石部駅前」までの13.4キロを歩きます。

第三ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第32回 第2日目 水口城址からJR草津線石部駅前
私本東海道五十三次道中記 第32回 第3日目 JR草津線石部駅前から草津宿





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿