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豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第32回 第2日目 水口城址からJR草津線石部駅前

2015年12月16日 15時50分49秒 | 私本東海道五十三次道中記


第32回東海道五十三次街道めぐりの第2日目が始まります。昨日は土山大野からお江戸から50番目の水口宿に到着し、宿内のほぼ三分の二の距離に位置する水口城址至近の場所が終着地点でした。
城下町であった水口宿にはかつての城跡(櫓・濠)があるので、出立前に水口城資料館の見学をすることにします。

水口城址パンフ

水口城出丸御矢倉

水口城も明治御維新を迎え廃城令に伴い、いずこの城と同じように城内の建物のほとんどが破却され、現在はほんのわずかな掘割と石垣しか残っていません。

碧水城(へきすい)とも呼ばれた「水口城」は寛永11年(1634)、三代将軍徳川家光が京都に上洛した際に築かせた御殿がその始まりです。作事奉行は小堀遠州が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれました。この御殿が将軍の宿舎として使われたのはこの一回限りで、その後は天領として幕府の城番が管理する城になりました。ですから城といっても城主がいなかったのです。

その後、天和2年(1682)、加藤明友(あきとも)が石見吉永から入封し、二万石の水口藩を立藩しこの城の主となります。加藤家は二代つづきますが、その後、鳥居忠英に替わります。鳥居家は忠英一代限りで、再び加藤明友の孫の嘉矩(よしのり)が二万五千石で入封し、加藤氏が明治維新までの約160年間にわたり九代藩主を務めました。 

歴代の水口藩主は同城を幕府からお借りしている城として大切に管理し、特に居城であるにもかかわらず、本丸部の御殿を使用しませんでした。明治に入ると城は壊され、わずかに堀、石垣の一部が残っているのみだったのですが、平成になって濠や櫓が復元され、水口城資料館として公開されています。(入館料100円、 10時~16時、月曜、祝日、第3日曜は休み

それではかつての出丸部分に復元された「矢倉」へ掘割の橋を渡って進んでいきましょう。橋を渡ると高麗門が私たちを出迎えてくれます。

高麗門への橋
高麗門への橋

高麗門をくぐると出丸御矢倉が現れます。この矢倉が「水口城資料館」です。

水口城出丸御矢倉
矢倉から見る高麗門
矢倉から見る出丸
水口城出丸御矢倉
水口城出丸御矢倉

城下町でもあった水口宿はお江戸日本橋から数えて50番目京都三条大橋からは4番目の宿場町です。天保14年(1843)当時の宿内の距離は東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒の規模でした。

江戸時代になって東海道が整備されると本陣や脇本陣、問屋場等が置かれ、宿場町として発展を続け、旅人で賑わいました。名物は干瓢をはじめ泥鰌汁・煙管・葛細工等です。広重は東海道五十三次・水口「名物干瓢」の題で、女性らが干瓢の原料であるユウガオを細長く剝いている様子を浮世絵に描いています。

ここ水口の名物が干瓢であることは関東の私たちにしてみると「へえ!」という感じなのですが、実は水口藩の三代目藩主、加藤嘉矩(よしのり)が下野国壬生藩から水口に転封になった時、名物の干瓢を下野国から持参したことに由来する、といいます。生産全国一の栃木県でも干瓢を栽培しているのは下野市周辺(宇都宮市の南部)だけです。その干瓢がこれだけ離れた水口宿の名物になっていたとは……。

さあ!それでは出立とまいりましょう。第2日目はここ水口宿から51番目の宿場町「石部」を目指します。石部まではちょっと長めの13.4キロです。



昨日辿ってきた旧街道筋のつづきへと向かうことにしましょう。中央公民館を左に見ながら、最初の信号交差点をを渡り直進し、次の四つ角を左折します。僅かな距離で道筋は突き当たりますので、これをまた左折します。そして次のT字路にさしかかるとその角に力石と呼ばれる大きな石が置かれています。江戸時代、ここは小坂町で東海道に面した角地にあるこの石は力石と呼ばれ、江戸時代の浮世絵師、国芳の錦絵にも登場します。

力石

小坂町は水口藩庁(城)にも近く、下級武士の住まいとして使われた長大な百間長屋小坂町御門などがあり、城下町の佇まいが濃かった場所です。現在、この場所には長屋の建物もなく、静かな住宅街に変貌しています。東海道はこの石の前で右折しますが、このあたりにも連子格子の家が多く残っています。 
真徳寺の表門は水口城下の武家屋敷(蜷川氏)の長屋門を移したものです。その先右側に木々が生い茂っているところが五十鈴神社です。 

百長屋の案内板

五十鈴神社の創建時期は定かではありませんが、神社がある場所は一説によると倭姫命の斎王群行が数年間にわたって留まったと言われています。斎王群行と係りがあることから、五十鈴神社の御祭神は天照大神です。

五十鈴神社の角に土が盛っていて「林口の一里塚跡」と書かれた標石があります。林口一里塚は、最初はこの場所より南の位置に置かれていたのですが、水口城の城郭の整備で東海道が北側に付け替えられたことで一里塚は五十鈴神社の境内の東端に移ったようです。お江戸日本橋から113番目(約444km)、京三条大橋からは12番目(約49km地点)の一里塚です。

林口一里塚跡

東海道は五十鈴神社の一里塚で左折するとすぐに岩谷医院前の信号交差点に出ます。この信号交差点あたりに東海道の西側入口の「西見付」があったと思われますが表示はありません。そしてこの場所で水口宿は終わります。

水口宿の西見付跡がある信号交差点で本来の東海道筋へと入ります。それほど広くない道幅の両側は住宅街がつづきます。そしてほんの僅かの距離を進むと街道の左側に造酒屋の「美冨久酒造」があります。店前には壜が置かれ、黒い板壁と白い漆喰が見事に調和しています。

美冨久酒造
美冨久酒造
美冨久酒造

美冨久酒造は大正6年(1917)創業です。「山廃仕込」という酒造の伝統技法を受け継ぐ醸造元です。少し行くと左側の麦畑の彼方に丸い小さな山が連なり、街道松があるところに出てきます。

畷道

古い時代には伊勢大路とも呼ばれていた道筋はかなり曲がりくねっていたのですが、江戸時代に東海道を整備する時に見通しが効くようにほぼ一直線の道筋にして、道の両脇の土手に松並木を植えていました。この辺りから東海道十三渡しの一つで野洲川(横田川)の横田の渡しまでの約3.5キロの道筋は畑の中を貫く一本道で、江戸時代には北脇畷(縄手)と呼ばれていました。私たちが歩いたのが2月の寒い季節だったのですが、遮るものがない畑の1本道は北風をまともに受け、かなりシンドイ思いをしました。



縄手道と言われている通り、旧街道は真っ直に延びています。おそらく街道時代と変わらない景色なのでしょう。街道の左右には田畑が広がり、遥か彼方に小高い山並みが連なっています。真冬の季節なので畑の緑はまったくなく、殺伐とした景色が只々続くだけです。

そんな殺伐とした景色がつづく道筋を2キロほど歩いていきますが、ほんの少し気休めになるのが路傍に小さな石仏たちです。美冨久酒造から750mの交差点の先の左側に北脇公民館があり、このあたりに一つの集落を形成しています。その先200mほど進むと、柏木小学校の前には松並木が残っています。

柏木小学校から更に250mほど行くと、柏木公民館があります。その公民館前の広場にが一つ置かれています。その櫓には梯子が付けられ、丁髷姿の一人の男が梯子を登っています。櫓の上には半鐘らしきものが吊り下げられているので、江戸時代の火の見櫓を模したものではないでしょうか。櫓の下に付いている扉を開けると内部に仕込まれているカラクリが自動的に動き始めます。そのカラクリは街道沿いで干瓢をむいて干している様子なのです。

柏木公民館の櫓

前述のように水口は干瓢が名物で、広重の保永堂版水口の景はこのカラクリの中の風景と同じです。畷道が少し飽きてきたところでの、ちょっと変わった展示物の出現でリフレッシュし、気持ちを改めてさらに旅をつづけていきましょう。



街道の景色
街道の景色

街道の両側には畑が広がり、田舎の風景がつづきます。柏木公民館から更に250mほど進むと、東海道と柏貴農道が交差する信号交差点にさしかかります。この交差点を過ぎると、街道脇の家の数が増えてきます。この集落が泉集落で柏木集落よりも規模が大きいようです。歩き始めて3.5㎞地点を過ぎた辺りで泉公民館の前にさしかかります。泉集落は古い家も多いのですが、古さもさることながら、どの家もどっしりとした大きな構えばかりです。



泉公民館を過ぎて、少し進むと道の右側に「国宝延命地蔵尊泉福寺」の石柱が置かれています。入っていくと、道の途中の三叉路の左角に「淨品○」と刻まれた道標がありますが、土に埋まっているので読めません。その先に堂宇を構える淨品寺でしょう。その先の「泉福寺」は最澄の開基と伝えられる天台宗の寺院で、ご本尊の木造地蔵菩薩坐像国の重要文化財です。泉福寺の境内には年老いた大樹が茂っています。(※淨品寺及び泉福寺には立ち寄りません)

東海道に戻り進み、200mほど松並木が続く中を行くと三叉路の左手に橋が見えてきます。橋の手前に「東海道」の案内標木があるので、ここで左手に進む道筋へ入ると、泉川に架かる「舞込橋」を渡ります。

舞込橋

渡ると右側に「日吉神社御旅所」の石柱があり、道はその先で右に緩やかにカーブしていきます。
日吉神社御旅所を過ぎると「泉の一里塚跡(114)」が置かれていますが、その一里塚の右手前に墓地があります。墓地と言っても墓石が並ぶものではなく、なんと土盛りの墓です。土盛りといえば、ピンと来るのが「土葬式」の墓地です。現在は「土葬」による埋葬方式はできませんが、かつて古い時代には土葬が一般的だったのです。墓地全体にこんもりと土盛りをした小山が並んでいます。

土盛りの墓
泉の一里塚跡

尚、現在でもこの墓地は現役で、火葬後に骨の半分を壺に入れてこの墓地に埋葬し、残り半分の骨をお寺のお墓に収めるそうです。こういった方法はこの辺りの風習のようです。この墓地からほんの僅か先の右側に榎の木が一本植えられている築山がありますが、これが「泉の一里塚(114)」を再現したものです。昔の泉の一里塚はこの場所よりもっと野洲川に近いところにあったようです。

その先で小さな川を渡り、左にカーブをすると車道の先に冠木門と巨大な常夜燈が置かれています。頻繁に車が走る道を渡るのですが、信号がないので十分注意してください。常夜燈の向こう側には野洲川が流れ、街道時代には船による渡しが行われていた「横田の渡しの跡」です。

横田の渡し
横田の渡しの冠木門
横田の渡しの常夜燈

見るからに巨大な常夜燈は高さ10.5m、笠石は2.7m四方、囲いは7mの玉垣で築かれているもので、対岸からも、渡し舟の上からもこの常夜燈は大きく目立つ存在だったのでしょう。明治24年(1891)に常夜燈の右側河岸に石垣を組んで木橋が架けられました。そして昭和4年に下流に橋は移されたという説明があります。

街道時代の渡しが行われる時間帯は一般的に明六つから暮六つなのですが、ここ横田の渡しでは江戸参勤交代の行列をはじめ一般の旅人たちも含め、夜中に及ぶ往来が頻繁で、川を渡る途中での事故が多発してようです。このため文政5年(1822)、村民達の寄付で建立されたのが夜に灯がともる巨大な常夜燈で、灯台の役目を果たしていたものです。

横田の渡しの常夜燈

今は野洲川(やすかわ)と呼ばれていますが、かつてこのあたりでは横田川と呼ばれていました。西から伊勢や東国に向かう旅人はこの川を渡らなければならなかったのですが、室町時代には横田川橋が架けられていましたが、江戸時代に入ると防衛上、通年の架橋が認められず、通常時は舟渡しだったのです。江戸幕府は「東海道の十三渡し」の一つとして直接管理し、泉村に命じて賃銭を徴収させて渡しの維持に当らせていました。

野洲川の眺め
野洲川の眺め

3月から9月までは四隻の船による舟渡し、寒さが厳しくなる10月から2月は流れ部分に土橋を架けて通行させていました。
現在見る野洲川もかなりの川幅があり、水量も豊富で「東海道十三渡し」の名に恥じない立派な大河です。お江戸から京へ上る私たち関東人にとって、東海道十三渡しの名前も「七里の渡し」までの河川や海上渡しは馴染みがあるのですが、ここ「横田の渡し」となるとちょっとピンとこない感じです。そんなことで東海道十三渡しを今一度おさらいしてみます。

《東海道十三渡し》
①六郷川(武蔵)②馬入川(相模)③酒匂川(相模)④富士川(駿河)⑤興津川(駿河)⑥安倍川(駿河)⑦瀬戸川(駿河)⑧大井川(駿河)⑨天竜川(駿河)⑩荒井海(遠江)⑪桑名海(伊勢)⑫横田川(近江)⑬草津川(近江)

これまで東海道十三渡しもここ横田川(野洲川)を含め12の河川と海上渡しを体験してきました。思えば遠くに来たもんだ!
横田川を渡ると、東海道の渡しも草津宿に入る手前の「草津川の渡し」を残すだけとなります。



かつての渡し場からは野洲川(横田川)を渡れないので1㎞ほど下流の横田橋に向かいます。泉西交差点で旧街道はいったん国道1号線と合流します。私たちは泉西交差点で反対側に渡り、国道1号に沿って右側の歩道帯を歩いて横田橋へと向かいます。
この泉西交差点を過ぎると、私たちは甲賀市から湖南市へと入ります。(国道1号線の左側を進むこともできますが、この先の朝国交差点で横断歩道橋を使って右側へ移動しなければなりません。尚、国道1号線の左側を歩くほうが、右側よりも平坦です。)

湖南市に入ったのですが、湖南とは琵琶湖の南という意味ですよね。と言ってもこの場所から琵琶湖まではまだ距離があり、琵琶湖とは接していません。湖南とはそもそも草津市から大津市の瀬田辺りの地域を指すもので、横田、三雲辺りを湖南と言われてもピンとこないのは私たちが関東の人間だからでしょうか?さらには湖南市の次に栗東市があり、その次に琵琶湖に接する草津市が現れます。
この湖南市は平成16年に旧石部町と旧甲西町が合併して誕生しました。おそらくその際の命名で、すでに甲賀市があったので、地勢的に無理を承知で「湖南市」としてしまったのかな?とひねくれた考えを持ってしまいました。

さて、横田橋は昭和27年に国道1号を敷設の際に架けられたものです。国道1号線は横田橋へは繋がらず、右方向へと分かれていきます。
横田橋には片側にしか歩行帯がありません。(京へ上る場合は橋の右側です)橋を渡ると旧甲西町三雲、今回の合併で湖南市になったエリアへ入ります。野洲川は上流から名前を変えながら流れていき、最後に野洲川になるようです。世の無常を書いた方丈記の作者、鴨長明は「横田川 石部川原の 蓬生に 秋風さむみ みやこ恋しも」と詠んでいます。

横田橋から見る野洲川

横田橋をほぼ渡りきると、橋下へつづく階段があるのでこれを下って行きましょう。階段を降りたら、左折して国道13号の下をくぐり直進すると、JR草津線の三雲駅(みくも)が前方に見えてきます。

突き当りが三雲駅

旧東海道筋は三雲駅手前の四つ角を右へ曲がります。ここで寄り道なのですが、この四つ角を左へ進むこと195mの場所に、横田常夜燈が置かれています。安永8年(1774)に東講中によって建立されました。左岸の三雲地区、右岸の泉地区のそれぞれに常夜燈が設置されましたが、三雲側の常夜燈は泉側のものよりも50年以上古いそうです。建立当時は現在地よりも約200m上流に置かれていました。

そしてこの常夜燈のある場所から右に折れて、草津線の踏切を渡り、緩やかな登り坂を辿ること約200mの小高い山の中腹に置かれているのが「天保義民之碑」です。それほどきつくはない坂道をのぼっていくと高さ10mという大きな慰霊碑が立っています。

天保義民之碑へとつづく坂道

天保13年(1842)不条理な検地に異議を唱え近江天保一揆を起こした重要人物、三上村の庄屋土川平兵衛をはじめとする11名の追悼と慰霊を目的に建立されました。これを近江天保義民と呼んでいます。他の百姓一揆と同様、近江天保義民は首謀者として幕府により捕縛され死罪等で犠牲となった人々のことです。明治になってようやく大赦となり、一揆から56年後の明治31年(1898)にこの天保義民之碑が建立されました。

天保義民之碑
天保義民之碑

来た道を戻り、三雲駅前に来ると「微妙大師萬里小路藤房卿御墓所」、左側に「妙感寺従是二十二丁」と書かれた石柱が置かれています。

微妙大師萬里小路藤房卿御墓所

萬里小路(藤原)藤房は鎌倉時代末期の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、後醍醐天皇の笠置山脱出に従いましたが、 その後、出家し臨済宗妙心寺派大本山、妙心寺の二代目住職になったという人物です。微妙大師の諡号は昭和天皇によるものです。ここから南西22丁にある妙感寺は藤房が晩年に過ごしたところです。



旧東海道筋は草津線の線路沿いに続いています。この界隈は旧田川村で江戸時代は立場だったところです。駐在所前の民家に「明治天皇聖蹟」の碑が建っています。

ここを過ぎると旧街道は右へ左へと蛇行を繰り返していきます。荒川という小さな川に架かる荒川橋を渡ると地名は湖南市吉永に変ります。左側のなだらかな坂道の右路肩に古そうな石碑が幾つか置かれています。正面に「萬里小路藤房卿古跡」、右面に「雲照山妙感寺 従是/十四丁」と書かれた石標と「妙感寺」、「立志神社」、「田川ふどう道 」などの道標が建っています。

石碑群

立志神社は江戸時代の「東海道名所図会)に「垂仁天皇の頃、大和国より天照大神が伊勢へ遷坐の時 この地に四年間鎭座し、瑞雲緋の如くたなびきしより緋雲宮と称し、のち日雲とし、また後世三雲と訛れるなるべし」とある神社です。 

立志神社は倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢へ落ち着くまで、天照大神を奉斎して大和から近江、美濃、伊賀などの各地を廻った際、仮宮になった社(やしろ)の一つだったようです。妙感寺は萬里小路藤房が開山した寺で、元亀元年(1570)、織田信長による焼き討ちに遭い焼失しましたが、万治年間(1660年ごろ)に再興されました。

旧街道の左側にJR草津線が走っています。まもなくすると旧街道は4号線と交叉します。信号がなく、横断歩道しかありません。そしてかなり交通量が多いので注意深く、横断歩道を渡ってください。いったん横断歩道を渡り、その後JR草津線の踏切をわたります。JR草津線の踏切を渡ってすぐに右折すると道の右側に「東海道」の木標が置かれています。

東海道の木標

 

草津線の踏切を渡り吉永地区へ入ると、道幅はかなり狭くなります。旧街道を進んで行くと、その先に「大沙」と記したタイルが嵌めこまれたトンネルにさしかかります。なんとトンネルの上には川が流れています。川の名前は「大沙川」と言います。大沙トンネルに入る手前左に久し振りに見る町の小さな商店があります。店先には自動販売機が置かれています。その店の反対側(街道右手)には可愛らしい屋根付のバス停留所が置かれています。

大沙トンネル

大沙川は上流から運ばれた土砂が堆積して川底が上がり、川が家や田畑よりも高くなったところを川の氾濫を防ぐために土手を高く築き直した結果、川がこのように高いところを流れるようになったのです。このような川を天井川といい滋賀県東部に多く見られます。江戸時代までは土手を登り川を渡って向こう岸の土手を下っていたようですが、明治以後はトンネルを造り、その下をくぐるようになりました。この大沙(砂)川トンネルはその一つです。

トンネルの幅が狭いため、トンネル内の歩道帯もかなり狭くなっています。車の往来もかなりあるので、トンネル内の歩行には十分注意してください。トンネルを抜けると左側に「弘法大師錫杖跡」の碑が置かれています。そして頭上の土手上に大きな杉の木が立っています。この大杉は地元では弘法杉と呼ばれ、樹高26m、周囲6m、樹齢750年という堂々とした杉の古木です。

弘法杉
トンネルと弘法杉
弘法大師錫杖跡碑

弘法杉の名の由来は大師が熊野詣での途中、この場所で昼食をとる際、杉の枝を折って箸の代わりとして使い、食後、2本の枝を土に突きたてました。その後、土に刺した箸が成長して二本の杉の大木になったと伝わっています。そして二本の杉の木の間に祠を設け、人々の信仰の対象となったそうです。
もともと二本の杉が並立していたようですが、安永2年(1773)の地震で片方の樹は倒れたと伝えられています。土手を登りトンネルの上に出ることができます。土手の上からは私たちが歩いてきた方向を一望することができます。

天井川の流れ
土手の上からの眺め

大沙川隧道を抜けてから、街道の左手の小高い山を眺めると、その山の中腹に巨大な岩が遠目でも見ることができます。実はこの山の中腹に戦国時代の「城」が置かれていました。城の名前は「三雲城」といいます。
この城は長享2年(1488)に安土の観音寺城主であった佐々木六角高頼が逃げ込みのための本城として、三雲典膳に命じて築かせたものです。しかし、元亀元年(1570)に信長の家臣の佐久間信盛の攻撃により、落城そして廃城となってしまいました。
城跡に残されたものの中で、山の中腹の巨大な岩は「見張り台」として使われていたと言われ、その大きさから「八丈岩」と名付けられています。八丈とは一丈は3.08mですから、およそ24mの高さの大岩です。



夏見地区には古い家が多く見られます。すでに通り過ぎた大沙川とこの先の由良谷川に挟まれた地域に江戸時代には「夏見の里」と呼ばれる「立場」が置かれていました。その当時、この立場には心太(ところてん)を名物にする茶屋が数軒並んでいました。現在の夏見の里は過ぎ去った時代を伝えるものはなく、静かな佇まいを見せているだけです。
そしてこの心太(ところてん)にまつわる歌が残っています。
「いさぎよき 菜摘(夏見)の茶屋のところてん 水からくりのまわす人形」
この歌の意味は、「背後の山から湧水を引いて、その水で心太を冷やし、その冷やした水でからくり人形を動かして、旅人の目を楽しませた。」

※平成21年まで「いなりや」という名の茶店の建物が残っていましたが、すでに撤去されています。

歩き始めてから8.5㎞地点にさしかかる辺りの街道左側に夏見診療所があります。この診療所の前に「石部宿一里塚跡」と書かれたの案内板が目立たない存在で置かれています。

石部宿一里塚案内板

実際に一里塚が置かれていた場所は70mほど東にあったといいます。お江戸日本橋から115番目(約452km)、京三条大橋からは10番目(約41km地点)となる一里塚が築かれていましたが現存しておらず、案内板が立っているだけです。案内板には「石部一里塚」とありますが、文章内には夏美とあります。

夏見(石部)一里塚跡」を通り過ぎると、さきほどの大沙トンネルと同じ、天井川の由良谷川トンネルが見えてきます。

由良谷川トンネル



トンネルをくぐると針地区で、左手の山には広大な敷地を有するタケイ種苗会社の研究農場が広がっています。針地区は街道情緒を感じさせる家並みが続きます。由良谷川トンネルから750m程行くと左側に文化2年創業という老舗の「北島酒造」があります。北島酒造では店内に湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒は仕込まれている、といいます。

北島酒造

その先で家棟川(やのむねかわ)(かつては天井川でしたが、現在は川筋を掘り下げ天井川になっていません)を渡りますが、川の手前が針集落、川を渡ったところからは平松集落です。そして橋を渡ったところに「両宮常夜燈」が建っています。両宮とは伊勢神宮の内宮と外宮のことを指しています。

※街道を逸れて家棟川に沿って歩いて行くと、飯道神社(いいみちじんじゃ)が社殿を構えています。祭神は、素盞鳴尊、菅原道真です。
※同じく街道を逸れて美松ゴルフ練習所の近くには南照寺と松尾神社があります。
南照寺は天台宗の寺で、延暦24四年(805)に伝教大師によって開基されたと伝えられている古刹です。
松尾神社は南照寺と同じ境内に社殿を構えています。松尾神社は平松集落(旧平松村)の鎮守社で、文徳天皇の仁寿3年(853)、領主の藤原頼平が山城国松尾神社から美松山に勧請、 至徳3年(1386)に現在地に遷座されました。本社殿は文政4年(1821)の建立です。 
南照寺と松尾神社は江戸時代までの神仏混淆時代は一つのものだったのですが、明治の廃仏希釈により現在の形になり、南照寺の住職が松尾神社も管理されています。

そして街道に近い場所に堂宇を構えるのが西照寺です。西照寺は天文6年(1537)、応誉明感の開基で高木陣屋の領主、高木伊勢守の菩提寺で、九代目の高木松雄の墓が置かれています。

旧街道筋の左側の滋賀県湖南市(旧甲西町)の南西に標高631.1mの阿星山(あぼしやま)がそびえています。そして阿星山の眼下の標高226.6mの美松山の南東斜面に不思議な松が自生しています。
アカマツの変種で、一本の根から地表近くで放射線状に枝が分かれた、笠や扇のような珍しい樹形をしており、地元の人はいつからか「平松のうつくし松」と呼ぶようになりました。自生地全体は特異な形態をなしており、その美しい景観は他に見ることができないと言われています。

このような松は日本でもここだけで、美松山の南東斜面一帯の約1.9haに樹形は傘型をしており大小約220本が群生しています。自生地は東海道に近く、古来より松の名所として知られていて、街道を往来する人々にも注目されていました。

大正10年(1921)3月3日に天然記念物として国の指定を受け、現在約200本以上の「うつくし松」があり、樹齢300年以上、高さ約12.7mになるものもあります。独特の樹形の理由は、自生地の土質(砂が交じった赤粘土)のため、ともいわれていますが、定かではありません。樹形は、扇型(上方山形)、扇型(上方やや円形)、傘型(多形型)、ホウキ型の四型式に分類されています。

そしてこの松には不思議な伝説が残されています。平安時代、病弱だった公家の藤原頼平が静養のため、この地を訪れていたときのこと。突然、童女が木々の間を舞い出て、京都の松尾神社の使いとして頼平を護るために供をしてきた、と告げました。ふと見ると、周囲の松がすべて、うつくしい松に姿変えていたといいます。このことがあってから、頼平のと松尾神社のの字をとり、JR甲西駅から南に伸びた地域に平松という村の名がつけられたということです。



家棟川(やのむねかわ)を渡ると東海道の道筋は柑子袋(こうじぶくろ)という珍しい名の集落に入ります。街道から少し奥まったところにお寺が幾つかあり、右手に愍念寺、光林寺、養林寺、左手には八島寺などが堂宇を構えており、寺が多い地域です。 



さあ!水口宿から歩き始めて11キロ地点にさしかかり、やっと石部宿の東木戸が近づいてきます。

落合川の橋を渡ると、日本橋から数えて51番目、京都三条からは3番目の宿場町である石部宿(いしべしゅく)に入ります。江戸時代には落合川から300mほど行ったところに石部宿の木戸があり、そこが石部宿の江戸側の入口であったといいます。現在の石部東交差点のあたりが江戸時代の木戸があった場所と思われますが、現在は何の痕跡も残っていません。宿内を貫く道筋に置かれた街燈には「東海道」の表示があり、股旅姿の旅人のイラストが描かれています。

石部宿の宿内の距離は1600mの長さで、家の数が458軒、宿内に1616人が住み、本陣が2軒、脇本陣はなく、旅籠が32軒の規模です。広重の浮世絵「東海道石部宿」は草津に向かう山を背景に描いていますが、実際には石部の宿場の景色ではなく、目川の立場の様子を描いています。

広重・石部の景

京から下る場合、「京発ち石部泊まり」といわれたようで、京を発った旅人は東海道なら石部宿、中山道なら守山宿に最初の宿をとったと言われています。ちょうどお江戸の日本橋を発って戸塚宿で最初の宿をとったのと同じくらいの距離です。宿場として繁栄していたことからいろいろな事件も起きたようで、そうしたことを題材にして歌舞伎や浄瑠璃にも石部宿は登場します。
桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ )は浄瑠璃で、38歳の長右衛門が伊勢参りの下向の途中石部宿で、14歳のお半と一夜を共にしたばかりに追い詰められて、京の桂川で心中するという話です。

石部東交叉点から100mほど歩くと「吉姫の里あけぼの公園」の標示があります。ここを街道から左手に上って行くと小高い場所に古墳 があります。吉姫の里あけぼの公園は宮の森古墳に作られた古墳公園です。古墳時代の中期、5世紀に築かれた宮の森古墳は前方後円墳で円の直径は55m、高さは10mです。

公園の隣に「吉姫神社(よしひめ)」が社殿を構えています。神社の社頭には吉姫神社の創建時期ははっきりしないが、御旅所の上田の地に祀られていた明応年間に兵火に遭い燃失し、天文3年(1534)に現在地に移ったという神社であると記されています。江戸時代には上田大明神という名で呼ばれていましたが、 明治元年に現在の名前になった。とあります。ご祭神は上鹿葦津姫(かみかやつひめ)大神、吉比女大神(よしひめ)、配祀神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と女の神様ばかりです。

吉姫神社の鳥居
吉姫神社境内
吉姫神社社殿

街道から奥まった場所に社殿を構える当社は吉姫の里あけぼの公園から連なる丘の麓に置かれています。静かな空気が流れる境内の一番奥に本社殿があります。吉姫神社の本殿は室町時代の天文3年の建立で、間口一間三尺、奥行一間一尺の大きさの一間社流造です。拝殿は間口三間、奥行三間の大きさの入母屋造りです。



吉姫神社がある辺りから石部の町の家並が増えてきます。街道沿いには漆喰壁、むしこ窓、格子戸のある古い家が目立ち、宿場らしい風情が漂う街並みに変ってきます。石部中央交差点の手前右手には清酒・香の泉を造る「竹内酒造」があり、交差点の南側には小さな広場があり、東海道のポケットパークになっています。ここには高札場跡の案内板が置かれています。

ポケットパーク
高札場跡

交差点を渡ると左側に「問屋場跡」「石部城址」の案内板が置かれています。

問屋場跡

石部の城跡は石部中央交差点を左折して左手奥に堂宇を構える「善隆寺」の境内一帯と言われています。この善隆寺は石部氏の菩提寺で、境内の奥に空堀の一部と石垣が残っているようです。

問屋場や高札場が置かれていた石部中央交差点を過ぎると、いよいよ石部宿の中心エリアへと入ってきます。中心エリアと言ってもかつての宿場の風情を残す家並みはほとんど残っていません。
中心エリアというのはいわゆる本陣があった場所という意味です。まず右手に「三大寺本陣跡」そして更に先の左側に「小島本陣跡」の案内板と「明治天皇聖蹟碑」が置かれています。

明治天皇聖蹟碑

案内板には「小島本陣は吉川代官所の跡地に建てられ、永応元年(1652)に本陣となり、明治維新で本陣制が廃止するまで続いた。敷地2845坪に間口45間、奥行31間、建坪775坪、部屋数が26室、玄関や門が付いた家だったが、老朽化で昭和43年に取り壊された。幕末には14代将軍徳川家茂が文久3年(1863)の上洛の際に宿泊した。最後の将軍・一橋慶喜も同年、上洛の際、ここで小休止している。また、新撰組局長、近藤勇も文久4年(1864)江戸下向の際に宿泊している。」とあります。
尚、表札を見ると「小島」とあったので 今も小島さんの末裔が住んでおられるのでしょう。

この先の街道左手には淨現寺明清寺そしてさらにその先に真明寺が堂宇を構えています。

道筋はやや右手にカーブしながら、宿内の鉤の手にさしかかります。この鉤の手で街道は鋭角的に右に折れます。その左角に店を構えるのが「石部宿田楽茶屋」です。この茶屋は東海道開設400年を記念して造られたものですが、私たちがこの場所を通過した時は午後4時を回っていたため、すでに店じまいをしてしまった後で、利用することができませんでした。田楽茶屋と銘打っているので、田楽も食べることができるようです。ここでは石部地域の伝承家庭料理である「いもつぶし」なるものを販売していますす。

石部田楽茶屋

田楽茶屋のある三叉路に置かれた常夜燈の下に「京へ右東海道」とあるので、右側の道を行きますが、江戸時代にはここは「枡形」になっていたようです。少し行くと次の鉤の手が現れ、旧街道はここで左へ折れ曲がります。そして右側の家の前に目立たない存在で「一里塚跡」と書かれた木標が置かれています。江戸日本橋から116番目(約456km)、京三条大橋からは9番目の一里塚跡です。



石部一里塚跡から200mほど行くと、石部西の信号交差点にさしかかります。この交差点を渡った右角に「見付」と書かれた木標が置かれています。ここが石部宿の京側の入口である西の木戸があったところですが、今は何も残っていません。そしてここで石部宿は終わります。

石部宿の西の玄関の見附を出たあたりにはほんの少し古い家が残っています。そんな様子を見ながら本日の終着地点のJR草津線、石部駅前へと進んでいきましょう。前方には道筋の正面に近江富士と呼ばれている三上山が見えてきます。

石部駅への道筋

街道左手の旅館平野屋を過ぎた先で、街道から右へ折れ直進するとJR石部駅です。かつての宿場町に近い駅とは思えないほど、閑散とした、寂しい空気が漂う駅への道筋です。当然、駅前には立派なロータリーがあるものの、その周辺にはコンビニもその他の商店もありません。尚、小さな駅舎の左隣にコミュニティハウスがあり、平日は午後4時まで喫茶店らしきものが営業しているようです。大変お疲れ様でした。水口宿から石部宿(JR石部駅)までの13.4キロを踏破しました。

JR石部駅

第3日目はここJR石部駅前から出立し、江戸から52番目の宿場町である草津を目指すことにします。

第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第32回 第1日目 土山大野の三好赤甫旧跡から水口宿まで
私本東海道五十三次道中記 第32回 第3日目 JR草津線石部駅前から草津宿





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