大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて

2011年06月10日 13時02分52秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
さすが岡崎には家康公ゆかりの名刹・古刹がいたるところに点在しています。大江戸散策を生きがいとする私にとっては岡崎は「宝の山」に思えてきます。

岡崎の街をレンタサイクルで巡ったその日、ふと立ち寄った古刹が「松應寺」です。当寺にまつわるエピソードは今から遡ること460年余り前、家康公が8歳の頃に起こった事件に関係します。

天文18年(1549)の3月、家康公の父上である忠弘公が織田方の間者によって暗殺されてしまいます。そしてこの年の11月に今川義元軍は安祥城の織田信秀の子である信弘を攻め、ついには捕虜として捕らえてしまいます。そしてこの時、すでに織田方に捕らえられていた竹千代(家康公)と信広を捕虜交換で、竹千代は岡崎へと戻ることができたのです。しかし、竹千代は岡崎に1ヶ月ほどの滞留の後、駿河の今川義元のもとへと送られることとなったのです。

再び人質として駿河に赴かなければならない竹千代(家康公)は岡崎城からさほど離れていない「能見の原」にある父忠弘公の密葬地を参拝し、墓の目印にと松の子株を植えたのです。竹千代の思いは、この松の子株が枝葉を伸ばし繁茂してくれれば松平家も再興できると……。

そして11年後の永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の後、岡崎に戻った家康公は父が眠る能見の原の松の木に対面すると、念願通り松は元気に繁り、墓の場所を示していました。

長きに渡る人質生活から開放され、やっと岡崎のために働けるようになったことを喜んだ家康公はこの能見の地に寺を建立し、この時、「松が応えてくれた」ことを意味する「松應寺」と号されたとのことです。

松應寺へつづくアーケード

現在の松應寺はそれほど規模は大きくありません。寺の境内へとつづく参道の両側にはスナックが並び、家康公ゆかりの名刹としての趣が感じられないのが残念です。かつては幕府の厚い庇護の下、仏殿、御廟、方丈、鐘楼、山門、総門などが建ち並び、それはそれは立派な伽藍であったのですが、明治以降、新政府によりその規模が縮小されたとのことです。また、家康公お手植えの松は平成3年に枯れてしまい、今は見ることができません。

松應寺ご本堂
鐘楼
梵鐘

狭い境内の端に見事な鐘楼が置かれています。梵鐘は、寛永12年(1635)家康公の九男で尾張徳川家の始祖、徳川義直が鋳造・寄進したもので、銘は江戸時代の有名な儒学者・林道春(林羅山)です。
太平洋戦争中、寺院の梵鐘は、武器製造などのため供出が強制されましたが、この梵鐘は文化的な価値が高いとして、供出を免れました。しかし、昭和20年(1945)、米軍の空襲で、梵鐘も戦火に包まれましたが、幸い破砕はしませんでした。

家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川将軍家菩提寺「大樹寺」~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川家累代祈願所「伊賀八幡宮」~(愛知県岡崎市)




日本史 ブログランキングへ


神社・仏閣 ブログランキングへ


お城・史跡 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿