大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

格式ある堂宇はさすが!尾張徳川家の菩提寺・建中寺

2012年01月18日 11時51分48秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
年初早々、名古屋へ行く機会を得てわずかな時間を利用して念願の尾張徳川大納言の菩提寺である建中寺へ行ってきました。御三家筆頭の尾張徳川家(61万石)の菩提寺であれば、それはそれは壮麗な堂宇が立ち並んでいるのではと期待を胸に向かった次第です。

建中寺三門

市営地下鉄「車道駅」から10分ほどの距離にある建中寺は静かな住宅街の中で尾張徳川家の威光を今に伝える見事な三門(三間重層門)が堂々とした姿で迎えてくれます。

当寺の創建は慶安4年(1651)に第2代藩主である徳川光友公が父である初代藩主義直公の菩提を弔うために建立しました。江戸時代を通じて尾張藩主の霊廟が置かれ、尾張徳川家の菩提寺として、当寺は寺の周囲は石垣と掘で囲まれ、数多くの壮麗な堂宇が並んでいたといいます。

創建当時の建造物のほとんどは焼失してしまっているのですが、現在残る建造物の中で総門、三門は創建当寺のものですが、そのほかのものは天明6年から7年(1786~1787)にかけて再建されたものです。とはいってもそれなりに歴史を感じる建造物です。

建中寺三門

前述の三門へ至る手前に葵の御紋を付した小振りの門が構えています。尾張徳川家の権威を示すようなこの御門は尾張家だけが使用した「御成門」で、創建は正徳4年(1701)と古いものです。この御成門はもともとは霊廟域へ通じる門として使われていたようで、この場所にあったものではありません。

御成門
御成門の葵御紋

建中寺門前の道を隔てて比較的大きな公園があります。建中寺公園と名付けられているのですが、その公園の南端に見事な門が置かれています。これが建中寺の総門といわれているもので、総檜造の四脚薬医門で慶安5年(1652)の建立です。かつてこの建中寺公園には7つの塔頭(宗心院・甲龍院・誓安院・全順院・正信院・光寿院・養寿院)があった場所ですが、今はその名残を示すものは何も残っていません。

総門脇の寺名石柱
総門

それでは三門へと向かうことにしましょう。堂々とした山門の扉には当然のごとく徳川家の家紋である金色の葵の紋が付されています。慶安5年(1652)に建立されたこの三門は総檜造りの入母屋造で、上層階には釈迦如来と十六羅漢像が安置されています。

三門扉の葵のご紋

三門をくぐり右手へ進むと天明7年(1787)に建立された鐘楼が置かれています。この鐘楼はなんと隣接する建中寺幼稚園の敷地内にあり、すぐそばまで近づくことができませんでした。

鐘楼

そして鐘楼から左へと目を移すと白亜の外壁が妙に目立つ建造物が置かれています。美しい姿のこの建物は非常に新しく見えるのですが、なんと江戸後期の文政11年(1828)に建立された経蔵です。

経蔵

そして境内の中心的存在のご本堂が堂々とした姿で迎えてくれます。名古屋市内では最大の木造建造物だそうで、建立は天明7年(1714)です。

建中寺ご本堂
ご本堂

ご本堂の左手の道を進んでいくと尾張徳川家の霊廟を守る御門へと達するのですが、残念ながら霊廟敷地内に入ることはできません。その敷地には本殿・渡殿・拝殿を一体とした権現造の霊廟と唐門、透塀から構成され、内外ともに華麗で極彩色の装飾が施されているとのことです。是非、機会があれば拝見したいものです。

霊廟ご門
霊廟ご門の葵ご紋

徳川将軍家の菩提寺であるお江戸の寛永寺の霊廟は幕末の上野戦争で焼失し、増上寺の霊廟は昭和20年の東京大空襲で焼失してしまい跡形もありません。徳川家の壮麗な霊廟建築を見るならば日光輪王寺の家光公の霊廟「大猷院」がありますが、尾州名古屋には尾張徳川家の霊廟が戦災にもめげずに残っていることは徳川大好き人間である私にとっては非常にうれしいことです。

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