単純理工系の私は験(げん)だの、縁起だのをまったく気にしない。競馬はデータしか考慮しないし、宝くじの売場も、番号にもこだわらない。勝負事や重要な場面で験担ぎの決まった動作をすることもない。そんな事をするくらいなら深呼吸でもしたほうが良いと思っている。
神社、仏閣の落ち着いた雰囲気が好きで良く訪れるし、ときどきは墓参りや仏壇を拝んだりする。しかし、手をあわせても家族の無事を報告し感謝するくらいで特に願ったりすることもない。考えてみればそれほど必死になったことがないということなのだろう。
願掛けで思い出すことがある。おふくろが私の受験のときに大好きなお茶を絶っていたと亡くなった後に、女房から聞いた。女房も息子の受験のときに、寒がりなのに長袖の下着を着なかったと後から聞いた。当人の私や息子はそんなこと思いもかけずのんびりしていた。
何故そんな無駄なことをするのだろうか? 効果を期待するというよりも、愛する者の望みが叶うために、何か一緒に苦労したいという気持ちを押さえられないのだろう。そしてその気持ちを自分の中だけに抑えこんでいるのだ。
まったく、母親というやつは!