広島原爆、きょう76年 被曝の元福島大学長 (2021年8月8日 中日新聞))

2021-08-08 12:04:07 | 桜ヶ丘9条の会

広島原爆、きょう76年 被爆の元福島大学長・星埜惇さん(93)

2021年8月6日 05時00分 (8月6日 05時01
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 人類が初めて核爆弾の恐怖に震えた広島の原爆投下から6日で76年。元福島大学長の星埜惇さん(93)は旧制広島高校の学生の時に被爆。戦後は深刻な後遺症に苦しみながら学究生活を送り、原爆被害の実態を伝え続けてきた。2011年3月には福島市内で東京電力福島第一原発事故の被害も経験した。「核を扱ってはいけない」。星埜さんの言葉は重く胸に響く。(坂本充孝)

旧制高校入学直後、惨状見続け感情まひ「人間でなくなったよう」

 四日、福島県郡山市の市中央公民館会議室。星埜さんがステッキを片手に姿を現した。左目と左耳が不自由というが、聞き取りやすい言葉で約四十人の聴衆に七十六年前の広島の惨禍を語った。
 広島県呉市で育った星埜さんは一九四五年に旧制広島高校に入学。戦局悪化で入学式が延期となったため八月一日に同校寄宿舎の薫風寮に入寮し、そのわずか五日後に原爆に遭遇した。
 六日は休みで、全国から集まってきた寮の仲間たちを連れて、広島の街を案内する予定だった星埜さん。ところが前日になって寮長から「おまえの実家は呉だから食料を調達してきて皆に振る舞ってくれ」と言われた。このため六日早朝、(当時の寮から近い)向洋駅に集まり、自分は呉方向へ、仲間は広島方向へと、東西に別れて七時四十五分発の列車に乗った。三十分後の八時十五分、列車ががくんと揺れて止まった。「窓のよろい戸の隙間から真っ青な光が差し込んで私の左目を貫きました。それが原爆でした」
 家に帰った翌日、不吉な予感がして、食料を担いで寮へ戻った。途中で列車が止まったため歩いて行くと、広島方向から多くの人がはだしで歩いてきた。シャツはボロボロで、みんな手を幽霊のように前へ掲げ、その手から同じ形をした皮膚がぶらさがっている。「何があったんですか」と尋ねても返事はなく、黙々と歩いていた。
 寮に着くと、「広島にすごい爆弾が落ちた」と聞かされ、残った仲間たちと帰らない寮生の捜索活動を始めた。トラックを一台借り、爆心地に近い市中心部へと向かった。
 市内を八つに分け、星埜さんの担当は西側の己斐(こい)という町だった。「川のおもて一面に死体が浮いていて、見るのがつらかった。福屋というデパートは一階から七階まで床が残っていて、被爆者がぎっしりと並んで寝ていました。誰もが焼け焦げた姿で、その間を縫って歩いて寮生を捜しました。途中で何度も足をつかまれ、『助けてくれ』と懇願されました。勘弁してくれ、と手で外しながら、七階まで捜しましたが、誰も捜しだすことはできませんでした」
 夕方五時に集合場所に戻り、寮に帰ろうとしたとき、トラックのそばに倒れている寮生らしい若者を二人見つけた。
 「名前を聞いても答えがない。よく見ると口の粘膜が炭になってしまって動かず、おうおうという声しか出ないらしいのです。その二人をトラックに乗せて寮へ走りました。一人は、やけどがなくきれいな姿でしたが、放射能をあびたせいか、トラックの上で習い覚えたばかりの寮歌をかすかに口ずさみながら亡くなりました」
 もう一人は寮まで連れて帰ることができ、自分の部屋に寝かせた。全身にやけどを負っており、髪の毛は焼け縮れてなかった。でも、寮の台所でもらったごま油と赤チンを塗るぐらいしか看病の方法がない。焼け焦げた口の間に吸い飲みで水を入れてあげるのが精いっぱい。この学生は九日に亡くなった。
 「福山に住むご両親が来るというので、そのまま寝かせておきましたが、まもなくウジがわき始め、全身を覆いました。初めはつまんで取っていましたが、手に負えない。部屋にもウジがはい回り始め、私は部屋を撤退しました」
 寮の建物は広島市内から三キロほどの距離にあり、救護所のような様相になった。次から次へと被爆者が運び込まれ、亡くなっていく。寮の庭に穴を掘り、投げ込んだ遺体に重油をかけて焼くのが日課になった。
 「遺体を焼く作業をしながら、だんだんと悲惨なものを見ても感情が働かなくなっていきました。自分が人間ではなくなったようで、何を見ても感動がないのです。この状態は戦後も続いて、回復にはかなりの時間が必要でした」
 作業を続けるうちに十五日の終戦を迎えた。

原発事故に身震い「人類は核を扱ってはいけない」

 当時、寮や動員先の工場には陸軍の将校などが監督官として常駐していた。「私たちが働く姿を後ろから見て、サボっていると思ったらむちを飛ばすのです。ところが天皇の詔勅を聞くやいなや一人の姿も見えなくなりました。工場内に備蓄してあった食料や毛布もなくなった。あの人たちの中身が身に染みてわかった気がしました。それまで私は模範的といってもいいぐらいの軍国少年でしたが、あのあたりから国に対する考え方もすこしずつ変わったと思います」
 二週間ほどして恐ろしいうわさ話が伝わってきた。原爆投下後に市内に救援に入った呉の警官隊約二十五人が、呉に戻った後に全員亡くなったと聞いた。
 「初めて原爆の本当の恐ろしさを痛感し、これは自分も危ない」と考えた。寮も進駐軍の命令で閉鎖され、二十五日に呉の実家へ帰った。その翌日、突然倒れ意識不明に。何も食べられず、水も飲めず、髪は全て抜けて二週間ぐらい寝たきりでいたと、後で家族に聞いた。
 幸いにも奇跡的に回復し、東京大農学部に入学。卒業後、福島大の教員となったが、十年ほどで左目の真ん中に白い塊ができ、三十七歳で視力を失った。医師の診断は合併白内障。手術をしたが治らず、結局、義眼になった。やがて左耳も聞こえなくなった。どちらも原爆の青い光のせいだと考えている。
 被爆から二十七年後の七二年に被爆者健康手帳を取得。原爆投下から二週間以内に広島市内に入り被爆した人のための「二号」の手帳だった。
 被爆者健康手帳の交付を受けるには証人が二人必要だった。「私は幸い、同僚に広島出身者がいて証人になってくれた。しかしこの証人探しで苦労する人が多いのです。証人になるためには生き残らなければならない。生きられなかった人が多いのですから」
 二〇一一年三月の東京電力福島第一原発事故の時は、原発から約七十キロ離れた福島市内にいた。七十六年前の被ばくとは放射線量のレベルが違うと知りながらも、放射能という言葉を聞くと身震いが止まらなかった。
 「原子力が暴走したとき止めるすべを人類は持っていません。どれほどの利益があっても、そんな危険なものを使っていれば、いずれとんでもないしっぺ返しを食らうと考えます」

 ほしの・あつし 1928年4月21日、徳島県鳴門市生まれ。旧制広島高、東京大農学部卒。福島大で40年にわたり教壇に立ち、経済学部長、学長を歴任。農学博士。