國・大企業と法廷闘争、公害弁連50年 弁護士が団結、被害者救済 (2022年3月9日 中日新聞)

2022-03-10 20:42:44 | 桜ヶ丘9条の会

国・大企業と法廷闘争、公害弁連50年 弁護士が団結、被害者救済

2022年3月9日 
 発生からまもなく11年になる東京電力福島第一原発事故や、高度経済成長期の負の側面である公害病の被害者救済に取り組んできた全国公害弁護団連絡会議(公害弁連)が結成50年を迎えた。公害の原因をつくっても責任を認めようとしない国や大企業に対して各地の弁護士が団結し、被害者とともに対峙(たいじ)し、解決策を模索してきた。大気、水質、土壌、騒音、放射能などの公害で苦しむ人々は、今も少なくない。公害弁連の役割とこれからの課題を考えた。 (荒井六貴)
 「公害訴訟が提起され、そこが闘いの拠点となっていくのが日本の公害史の特徴。被害者は訴えざるを得ないところまで追い詰められた」
 被害者救済運動を展開する全国公害被害者総行動実行委員会(東京都新宿区)が二月五日にリモートで開催した講演会。公害問題に長年取り組んできた一橋大の寺西俊一名誉教授(環境経済学)はそう力説した。
 寺西さんは、公害弁連の弁護士が法廷で争う際の証拠となる科学的な知見などで支援する日本環境会議の理事長も務め、ともに国や大企業に立ち向かってきた。半世紀を迎えた公害弁連について、果たしてきた役割や課題を聞いた。
 戦後日本の公害問題の原点とされる水俣病。熊本県水俣市のチッソの工場で排出されたメチル水銀が海に流され、汚染魚介類を食べた人たちが手足の感覚障害や視野狭窄(きょうさく)などを発症した。一九五六年に公式に確認され、患者が相次いだ。
 寺西さんは「六〇年代に入ると、各地で深刻な公害が激発した。高度経済成長の時代の裏返しでもあった」と指摘。経済活動を優先する国や原因企業は公害被害そのものを認めず、これに対し、被害者が救済を求めた。六七年六月に新潟水俣病で訴訟が起きると、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、熊本水俣病と六九年までに、四大公害病が次々と司法で争われた。
 公害問題が一般にも知られるようになり、内外の著名な研究者らが七〇年三月、東京で国際会議を開いた。健康や福祉を害されない環境で生活する権利などをうたう「環境権」を提唱。基本的人権として確立することを求めた。
 寺西さんは「環境権の考え方が弁護士らにもインパクトを与え、被害者救済のための制度をどうつくり上げていくかがカギになった。国や大企業と争い、勝訴に導くのは容易ではない。そのための立証や法廷戦略などを検討するため、それぞれの訴訟の弁護団が情報交換する横のつながりが重要になった」と説く。
 七二年一月、公害弁連が誕生した。「所属する弁護士事務所の垣根を越え、一つの目的に向け戦略を練る。問題解決の支援部隊、専門家集団として重要な役割を果たしてきた。世界に誇れる取り組み」と紹介する。例えば、米国では単独の事務所で対応したり、アジアでは受け皿となる弁護団がなかったりするという。
 「公害弁連がなかった時代の熊本水俣病では、チッソはわずかな見舞金で被害者をだまらせ、患者確認から十年以上、被害が埋もれた。福島原発事故の時には、弁護団にノウハウがあり、避難者救済のため、事故後二年で訴訟ができた」と意義を語る。
 六〇年代の四大公害病の訴訟はすべて勝訴し「判決をてこに、解決の道筋ができた。公害防止協定や補償協定が結ばれ、制度化が進められた。公害被害の発生責任を認めさせ、費用を原因企業に負担させるという汚染者負担原則もある程度進められた」と解説。公害弁連は政治家へのロビー活動や、国、企業への制度創設の要望などを通じ、環境政策を動かしてきた。
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 ただ、課題もある。
 被害者は経済的にも厳しく、弁護団は手弁当的な面もある。水俣病の訴訟に携わった都内の弁護士は「九州までの交通費やコピー代で月十万円かかったこともあり、苦しかった。推進力は、被害を知ってしまったこと、自分が何とかしなくてはという思いだった。思い浮かべるのは被害者の顔だった」と振り返る。
 寺西さんは「今は弁護士の数は増えたが、企業や役所の顧問弁護士になったほうがいいと考える人も少なくない。これまで被害者救済に尽力してきた弁護士の多くは高齢化し、今後、次の世代がこうした取り組みを引き継ぎ、担ってくれるかが心配だ」と危惧する。
 公害弁連の事務局によると、活動する弁護団は全国で五十四。公害弁連の弁護団は今、どんな活動をしているのか。
 福島原発被害弁護団事務局長の笹山尚人弁護士は「訴訟では国の責任の有無や、ふるさとを喪失した損害を認めるのか、賠償額の妥当性が争われている」と説明。最高裁は二日付で、係属する七件のうち三件で東電の上告を退ける決定を出したが、全面的な結論はまだだ。上告から二年になる訴訟もあり「原告で亡くなる人も出てくる。最高裁に早期の決着を求めている」と話す。
 放射能でコミュニティーを失ったことによる「ふるさと喪失」の主張は「公害弁連や学者との議論で生まれてきた考えだった。弁連は、既存の発想では解決できない難問にどう挑むかの助けになる」と紹介する。
 イタイイタイ病弁護団は、訴訟解決後も活動を続ける。岐阜県飛騨市にある原因施設に年一回立ち入り調査を続け、昨年で五十回を数えた。弁護団長の朝倉正幸弁護士は「原因企業とは緊張感ある信頼関係ができたが、それでもいつ豹変(ひょうへん)するか分からない。公害根絶に向けて、一人の力では難しいが、横のつながりが力になる。公害弁連の役割は大きい」と強調する。

水俣病訴訟まだ終わらず 提訴から7年、進まない審理

 水俣病もまだ終わらない。二〇一二年七月に期限切れとなった水俣病特別措置法で一時金や医療費が支給されなかった約千八百人が熊本や東京など四地裁で国やチッソなどを相手取り損害賠償を求め、係争中だ。
 さいたま市在住の設備会社役員吉竹直行さん(59)もその一人で、東京の原告団長も務める。「予算がなくなり、特措法の申請を打ち切ったのだろう。国やチッソは被害を小さく見せて終わらせようと思っていたのでは」と疑問視する。
 出身の鹿児島県伊佐市は内陸部で水俣市と接し、子どものころは、水俣方面からの行商が訪れ農作物と交換していた。「食事は魚と野菜が中心。それが原因だったのだろう。膝から下の感覚がなく、手のしびれもあってよくモノを落とした。歩き方も以前から、ふらふらしておかしいと言われていた」と説明する。
 たまたま仕事で水俣に行き、被害を伝える施設を見学すると、自分と似た症状が紹介されていた。だが、すでに特措法の申請は打ち切られ、そもそも伊佐市は救済対象外だった。
 一四年八月に提訴し、七年が過ぎた。審理はスムーズに進んでいない。「原告は六十五歳以上の高齢者が多く、提訴後に亡くなっている人もいる。早く解決してほしい。安心して生活できるよう医療制度をつくってほしい」と願う。