「子どものための国」に 教育勅語からの脱却 (2020年8月13日 中日新聞))

2020-08-13 09:33:01 | 桜ヶ丘9条の会

「子どものための国」に 教育勅語からの脱却

2020年8月13日 
 今年の夏休みは多くの子どもたちにとって、記憶に刻まれるものになるでしょう。多くの学校で、いつもより短い。新型コロナウイルスの感染拡大防止で春に休校した穴埋めに夏休みを短縮して授業をする自治体が多いためです。
 猛暑の中、奮闘する子どもや先生たちにエールを送りつつ、戦後七十五年とは別の「節目」から教育を考えてみたいと思います。今年は、明治政府が一八九〇年に教育勅語を発布してから百三十年となります。
 教育勅語は、天皇が臣民に道徳を諭す体裁をとっています。一九四五年の敗戦まで教育の基本方針として強い影響力を持ち続けました。
 一八六八年の明治維新以降、西洋をモデルに学校制度が整えられていきました。西洋思想も流入し、自由民権運動も広がります。政府の中では警戒感も強まり、従来の儒教への揺り戻しの動きも生まれました。
 そういう時代背景の中で、教育勅語には親孝行など儒教的な徳目とともに、順法精神など西洋的な考え方も盛り込まれました。「一旦(いったん)緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と、国の一大事には身をささげて皇室国家に尽くすことを求めており、軍国主義教育の精神的な支柱となりました。
 戦後の民主主義体制の中で教育制度を再出発させるにあたり、衆参両院は一九四八年に勅語の失効・無効を確認する決議を採択しました。
 しかし、掲げられた徳目については普遍的とする再評価の動きは戦後、繰り返されてきました。政府は二〇一七年に「学校で、憲法や教育基本法等に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を決定しています。

繰り返される容認論

 翌一八年には、柴山昌彦文部科学相が就任会見で「現代風にアレンジした形で、今の道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている部分がある」と発言し、物議を醸しました。
 成り立ちを見れば分かるように、古今東西の徳目を集めているわけですから、部分的に普遍性を持つのは事実でしょう。しかし国のために身をささげる、つまりは「国のための子ども」をつくり上げていくことが究極の目的となっている以上、民主主義とは相いれません。
 しかも、自分の頭で考える余地なく教育勅語を教え込まれた時代があったのです。子どもたちは教育勅語の暗唱を繰り返し、うまくできなければ体罰も受けたといいます。
 作家の故井上ひさしさん(一九三四〜二〇一〇年)も戦時下の軍国主義教育を受けた世代です。愛国心教育の色合いが強まった国民学校に通った人たちが護憲を訴えた「国民学校一年生の会」では、世話人代表も務めました。
 二〇〇六年に出版した著作「子どもにつたえる日本国憲法」の後書きでは、繰り返される容認論、肯定論に対し、皮肉を込めてこう記しています。
 <…このごろ「この憲法は古い」と言う人がふえてきました。そう主張する人は他方で、「明治の教育勅語はすばらしい」と言ったりしますから、なにがなんだかわからない。古いというなら、日本国憲法より、教育勅語のほうがよっぽど古いではありませんか>
 教育の内容を定める学習指導要領で今、重きをおかれているのは、目的を自ら考え、問題を解決できる力です。子どもたちが今後人工知能(AI)の進化など変化の激しい社会で生きていくことが背景にありますが、コロナ禍で社会が混沌(こんとん)とする中、自ら未来を切り開く力はますます求められるようになるでしょう。
 短い夏休みに象徴されるように学校は大変な状況です。新型コロナウイルスの感染拡大は収まらず学びの保障が危ぶまれます。しかし光が見えていないわけではありません。
 今春の全国一斉休校でオンライン授業が注目され、パソコンなどの一人一台配備は前倒しで進められる予定です。オンライン授業を取り入れた学校では、不登校だった子も参加したとの事例も生まれているようです。

学びの危機だからこそ

 新型コロナウイルスに伴う「三密」対策で分散登校も導入されましたが、今後、学級規模を小さくしていくことも選択肢として現実味を帯びてきました。財源の確保など課題もありますが、パソコンの活用とあわせ、一人一人ともっと向き合う新たな教育の姿を描いていくことも夢ではないように思います。
 子どものため国に何ができるかが、問われていると感じる戦後七十五年の夏です。