「戦える国」に懸念 (2015年5月15日中日新聞政治部長金井辰樹)

2015-05-15 07:59:03 | 桜ヶ丘9条の会
「戦える国」に懸念 政治部長・金井辰樹 

2015/5/15 朝刊
 安倍内閣が、他国を武力で守る集団的自衛権を使えるようにする安全保障関連法案を閣議決定した。憲法の解釈を変えて集団的自衛権を行使できるように内閣が初めて決めたのは昨年七月。以来、十カ月半の間に、政府・与党は一直線に法案をつくりあげた。この間、世論の反対は根強く、法案を今国会に急いで提出する必要はないとの意見は多数を占め続けたが、主権者である国民の声が反映されることはなかった。

 憲法九条は、戦争を永久に放棄し、戦力の不保持をうたう。「戦わない」国になると宣言した。

 条文を素直に読めば自衛隊の存在を認めることさえ難しい。二十三万人弱の自衛隊員を抱え五兆円近い防衛予算を毎年使う日本の現状は九条の枠を超えてしまったようにもみえる。そして自衛隊は、最近二十年あまりの間、なし崩し的に海外に派遣されてきた。

 それでも自衛隊は、一度も人に向けて発砲せず、一人も殺さず、一人の戦死者も出していない。日本は、戦後七十年間、戦争に加わらなかった。九条の縛りがあったからこそ「戦わない」一線がぎりぎりで守られてきた。

 閣議決定された法案に目を向けてみる。「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があれば、他国のために武力行使できるようになる。「根底から」とか「明白な」という抽象的な言葉が並ぶ条文を読み、政権のさじ加減で海外での武力行使が決まってしまい、地球のどこでも「戦える国」になりはしないかと心配になる。

 法案は十五日、国会提出され、その是非は国会議員に委ねられる。「戦える国」に踏み出すか。九条の縛りの中で踏みとどまるか。国会の論戦は、変質する平和主義の行方を決める。これまで安保法制の議論から外されてきた国会の存在意義が問われる。

 そして国会の議論では、国民主権そのものが問われる。主権とは、国のあり方を決める権力のこと。国会が主権者の考えと離れたことを決め、その結果、政権が「国のあり方」を思うままに変えられるようになれば、国民主権は形骸化してしまう。そのことを主権者である国民に選ばれた国会議員は忘れてはならない。私たち一人一人も、自分が主権者であることをしっかりと胸にとどめたい。
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