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分かりやすい集団的自衛権の本質(2014年5月14日 中日新聞特報)

2014-05-14 07:41:18 | 日記
集団的自衛権、識者が言い換えると- 

2014/5/14 朝刊

安保法制懇の報告日程などについて記者会見する菅官房長官=13日午前、首相官邸で
 安倍政権は憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にしようとしている。だが、この権利を行使して何をするのかと言えば、日本ではなく他国の防衛だ。だから、集団的自衛権を「他衛権」と呼ぶ人が少なくない。集団的自衛権の本質を表すように、識者らに言い換えてもらうと-。

 「日本が米国の舎弟や下僕になる権利」
 コラムニストの小田嶋隆さんは「米国との軍事同盟を明確にし、ともに戦うというのが集団的自衛権の本質だ」と指摘し、こう言い換えた。

 さらに、自衛というよりも積極的に戦うことを意味しているため、「徒党型交戦権」「拡張型交戦権」とも言えるという。
 舎弟や下僕というのは、「日米の軍事力を考えた場合、米国の力が圧倒的に強いため、おそらく対等な関係にはならないだろう。日米関係はやくざの親分子分の関係になりかねない」と危ぶむからだ。映画「仁義なき戦い」を思い浮かべる。

 「あの映画で描かれているように暴力第一の世界では、兄弟の契りを結んだとしても、力が弱い方は鉄砲玉や盾にされる。つまり、日本は代理戦争の駒として使われるだけだ。集団的自衛権の行使を認めれば、自衛隊が米軍の一部隊として中国監視の最前線に立たされかねない」と最悪の事態を想定する。

■乱暴な解釈憤り

 上智大の三浦まり教授(政治学)は「自衛の名をかたって軍国少年を量産する権利」と称した。
 「『戦争できる国』になれば、戦果を挙げた人がほめたたえられるようになる。相手方の命を多く奪った人が称賛される風潮が広がることも考えられる」

 学校教育にも少なからぬ影響を与えてもおかしくはない。「集団的自衛権の行使容認は、単に日本が海外で戦争できるようにするだけではないのです」とくぎを刺した。

 心配なのは、「今後は米国に言われるがまま、戦争に加わることになるかもしれない」ことだ。

 現在、日本はどこかの国に攻められ、個別的自衛権を発動するにも、「わが国に対する急迫不正の侵害があること」「この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと」「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という厳しい三要件で、自らを縛っている。集団的自衛権の行使容認とは、その縛りを解くことにほかならない。

 今年十月の受賞を心待ちにする市民運動「憲法9条にノーベル平和賞を」の実行委員会で共同代表を務める石垣義昭さんは「九条を空洞化させる権利」と言い換えて、乱暴な憲法解釈に憤る。
 「集団的自衛権の行使容認で、『戦争できる国』になれば、九条は有名無実化されてしまう。平和憲法が守ってきた国民の安全は脅かされるようになり、地獄のような戦火に巻き込まれることが起こり得る」

■「弱い者いじめ」

 朝鮮半島情勢に詳しいジャーナリストの石丸次郎さんは、「隣人の不信を増幅させ、警戒させてしまう権利」だと言う。
 「日本がかつて植民地化した朝鮮半島では、自衛隊を海外で戦争できるようにすることには強い抵抗感がある。『米軍の支援』『自国民の救出』名目でも、集団的自衛権行使への警戒心が緩むことはないだろう。近隣国が行使容認をどう捉えるかという視点が抜け落ちている」

 集団的自衛権の問題に詳しい田中隆弁護士は「自衛という言葉が使われているが、実際は違う」と説き、「よその国によってたかって攻め込む権利」「集団的外征権」と指摘した。
 集団的自衛権の行使で最もあり得るのは、日米安保条約を結ぶ米国が他国に攻め込む場合に共同歩調をとるというシナリオだろう。「力の強い国が配下の国と、他国を袋だたきにするのが実態だ。決して自国に危険性が迫っているから、行使するわけではない」

 日本が集団的自衛権行使の可能性を表明するだけで近隣諸国に対する挑発になる。「中国や韓国との間で緊張感を高めることにしかならない」と訴える。

 立教大大学院の西谷修特任教授(哲学)は、ずばり「米国の戦争を手伝う権利」。
 集団的自衛権は国際法上、自国と密接な関係にある国に対する武力攻撃を、共同で阻止する権利と解釈される。現実的に密接な関係にある国は軍事同盟を結ぶ米国しかなく、いざ行使となると米国が防衛の名の下に仕掛ける戦争に加担する形になる可能性が高い。

 「世界中の統治をもくろんでいる米国は、自由に使える手駒が多ければ多いほどいい。その一つになる。日本国内でも、戦時体制となれば原発の問題でも何でも機密にしやすくなる。国民の締め付けを厳しくできることも安倍政権の狙いの一つだろう」と分析する。

 「弱い者いじめをする権利」と言うのは、東海大法科大学院の永山茂樹教授(憲法学)。
 過去の歴史をひもとくと、世界で集団的自衛権が行使されたのは米国が仕掛けたベトナム戦争をはじめ、旧ソ連によるハンガリーやチェコスロバキア(当時)、アフガニスタンへの軍事介入など大国による武力行使ばかりだ。「決して公平な立場から仲裁したり、困っている国を助けようというのではなかった。いずれも米ソという大国が自分たちのエゴのために、軍事力を使って強引に介入した」と話す。

 NPO法人「民法改正情報ネットワーク」の坂本洋子理事長は「国民を守るためとは言っても、実際はそうはならないだろう」として「むしろ国民の権利をないがしろにするシステム」。
 坂本氏が懸念するのは、行使容認を名目に、国民の権利が奪われることだ。「人権侵害の究極の形が戦争。自衛というお題目ばかりが叫ばれ、国民が大切にされなくなるのではないか。もともと人権を重要視していない安倍政権の下で、特に女性や子ども、高齢者、障害者らの意見が封じ込められる恐れがある」

 (榊原崇仁、上田千秋)

砂川最高裁判決を集団的自衛権の根拠にするのは無理。(2014年5月2日報道ステーション)

2014-05-06 00:42:32 | 日記
砂川第一審判決は、日本駐留米軍は、日本国憲法9条の「戦力」に当たり、憲法違反だと明確に判示したが、アメリカから圧力を受けるというあってはならない司法の否定をした当時の最高裁判決は本来無効である。当時、日本には、集団的自衛権という概念はなかったと、一審の憲法違反判決を書いた松本一郎裁判官が証言。







立法も行政も司法も「9条は守らなければならない法規範である」と長い時間かけてと考えてきた

2014-04-28 14:42:55 | 日記
集団的自衛権を考える 元内閣法制局長官・宮崎礼壹氏(68) 

2014/4/28 紙面から

◆行使「義務化」の恐れ

 憲法には細かな規定がないので、社会状況が変わった場合に新たな意味を加えることはあり得ます。しかし、九条は憲法の根幹であり、半世紀余も解釈を積み重ねてきました。時代に合わなくなったというならば、定められた改憲の手続きを踏んで国民に直接、見直しの是非を問うべきです。

 そもそも、わが国を守る「必要最小限度」の自衛権に集団的自衛権が含まれるという解釈は、論理的に無理がある。行使の大前提に「わが国に対する武力攻撃があった場合」との要件があるからです。これに対して集団的自衛権は「他国防衛」のために実力行使をする権利なのです。

 自民党からは「限定的」な行使容認論なるものも出てきましたが、どうやって一線を引くつもりなのでしょうか。「我が国の安全に重大な影響が及ぶ場合」に行使を限ると言っても、曖昧すぎて明確な歯止めにはなりません。

 解釈改憲の推進派は、米国を防衛するための自衛隊の武力行使が「日本の選択肢を広げる」と言っている。でも、それは選択肢ではなく、米国の求めに応じなければならない「義務」になる懸念があります。

 日本の憲法は、世界にもまれな戦争放棄をうたっている。その憲法を「守らなければならない法規範」と考えるのか、「単なる努力目標」ととらえるのか、究極的には「押しつけ憲法だから無効と言っていいんだ」と考えるのか。憲法そのものの位置づけに本当の分かれ道があるのかもしれません。

 繰り返しますが、九条の解釈は長い時間をかけて積み上げてきたものです。行政も立法も司法も「九条は守らなければならない法規範である」と考えてきたことは、明らかなことではないでしょうか。

 <みやざき・れいいち> 法務省を経て、第1次安倍政権を含む2006年9月から10年1月まで内閣法制局長官。現在は法政大教授。

解釈変えればすべて失う(中日新聞2014年4月24日)

2014-04-25 08:18:37 | 日記

元内閣法制局長官の坂田雅裕男さんが、、中に新聞「われらの憲法 集団的自衛権を考える」欄で述べているが、集団的自衛権の行使を政府の憲法解釈で行使できるようにしようというのは、要するに他国同士が勝手に殴り合っているところの一方に味方して、一方の相手を共になぐりつける事が出来るようにしようというものであり、日本は平和主義をやめると宣言するようなものである。