gooブログはじめました和!

写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

山代温泉

2019-11-13 | 日記
温泉旅行にはまって、気持ちの冷めない内に山代温泉に行ってきた。

  11月12日(火)
サンダーバードで加賀温泉駅に、そして迎えのバスで午後2時「加賀百万石の宿」に到着した。
散策に出かけ先ず服部神社(はっとりじんじゃ・はとりじんじゃ)を訪ねた。
服部神社は『延喜式』神名帳(927年)に記載のある広大な官社であったが、1552年、下剋上の激しい戦国時代に戦火で焼失、明治8年現在の地に社殿が復興されて、明治17年に県社になったそうである。
鳥居の傍に一言地蔵の祠が置かれ、赤い帽子のお地蔵様が道行く人にそっと寄り添っていらっしゃった。

          (画像はクリックすると拡大する)  

本殿まではやや急な石段を登って行くのだが、左右の苔むす境内には大樹が林立し、見慣れない妙な木も有った。
幹周り6m、樹齢200年以上のスダジイと言う大樹はシイの木だそうだ。樹齢300年の椿はどんな花を付けるのだろう見たいなぁ~。
本殿のお参りを済ませてから更に奥へと登って行くと明覚(みょうがく)上人《 1056年~没年不詳 比叡山で修行された平安後期の天台宗の僧 》の供養塔(国の重文)があった。
このお坊様は隣接する「薬王院温泉寺」の住職(初代?)であられた時期があって、古代のインドの梵語・サンスクリット語の研究をして日本語の音、あいうえおの表即ち五十音図の基礎をこの地で創られた(1093年?)とか。

            

江戸時代の手習いは「いろはに・・・」であり、明治時代に「あいうえお」になったらしいが、あいうえお表の成立はいろは歌の成立より早かったわけだよな。
  cf.「いろは歌」:「色は匂へと散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせす」
      いろはにほへと ちるぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑいもせす
      
五輪塔は「薬王院温泉寺」の境内から「あいうえおの小径」でつながっていて、本来はお寺の方からたどり着くとお寺と上人と「あいうえお」がすんなり結びついたのかな。

神社をあとにして、直ぐ近くにある「魯山人寓居跡いろは草庵」を訪ねた。ここは明治初期の建物・吉野家旅館の別荘で、当時山代の旦那衆が集まって風流を楽しまれた場所だそうだ。北大路魯山人(明治16年~昭和34年)は大正4年の秋から約半年間ココで生活したという。
私は料理家・美食家としての氏の名を知っていただけだが、実際は篆刻家でもあり画家・陶芸家・漆芸家でもあり、氏の芸術は人間国宝級であったという。

         
  
受付を済ますとお茶の接待があり、庭を眺めながら休憩をしてホッとするひと時を味わわせてもらった。
仕事部屋や書斎、茶室、土蔵(展示室になっている)を廻り、氏の色々な顔を再認識した次第。
氏が手掛けられた「吉野屋」旅館の看板の複製が展示されていた。仕事部屋の座布団と木屑を散らしたコーナは、ただそれだけで看板製作に集中している氏の姿を想像出来たし、茶室や囲炉裏の間では旦那衆と歓談するにこやかな雰囲気が伝わってきた。

再び服部神社の鳥居前に戻り、綺麗な石垣の側を通って「薬王院温泉寺」に行った。
「薬王院温泉寺」の山門・仁王門をくぐると細い通路で服部神社に通じているのが分かった。そういえば二の鳥居手前左手に「薬王院温泉寺南門」の表札が有ったよな。(苦笑)
こちらは1300年前に開かれた山代温泉の守護寺らしい。聖武天皇(在位724~749年)の御代725年に行基菩薩が白山修行に向かう途中で温泉を発見されたというので、行基菩薩像が建てられていた。
花山法皇の勅願により明覚上人が建立したとされる七堂迦藍も、やはり戦国の兵火によって焼失したが、前田利治候(大聖寺藩主)により再建され現在に至っているそうだ。

              

折しも紅葉がとても綺麗でふと我に返って秋を感じた。手水所にはカエルの口から水が出ていて、先ほどの服部神社では大きな八咫烏(やたがらす)がいて共に珍しい手水所であった。

色々な発見に頭の中が前後してバラバラになりそうだが、服部神社の大樹と温泉神社の紅葉と明覚上人の五輪塔はずっと記憶に残りそう。。。。。

立ち寄った総湯では温泉卵を買い、明治時代の総湯を復元したという古総湯では建物の写真だけを撮り、宿に戻った。
総湯の門・赤瓦に板張りの壁は吉田屋旅館の門を写したとか。そして古総湯の内装の床や壁には九谷焼タイルが貼られているという。
午後5時、辺りはもう薄暗くなり湯の曲輪に灯りが灯り始めた。
山代温泉湯の曲輪というのは総湯を中心に旅館や商店が立ち並ぶ区域を言うらしい。

            


  11月13日(水)
朝10時にチェックアウトして「市之瀬神社」に立ち寄り、今日は「九谷焼窯元展示館」の見学を楽しみにしていた。私が初めて九谷焼の抹茶茶碗を買ったのが金沢だったので、山代と九谷焼は結び付いていなかった。山代が九谷焼発祥の地だと聞き、それでは是非山代温泉へと思ったのである。

特に豪華で貴重な焼物とされる『古九谷』について説明板の記事を拾ってみた。江戸時代初期に雪深い山間の里、山代温泉の奥九谷村(加賀国江沼郡九谷村)で色絵の磁器が焼かれていた跡が確認され、その時代に焼かれたものを言うらしい。約50年で廃窯となり、以降80年間程の空白があって後、大聖寺藩で九谷焼をもう一度復活させようという気運が高まり、大聖寺の豪商・豊田伝右衛門が吉田屋の屋号で成功したそうである。そして明治初年まではこの窯を中心に旧大聖寺藩(加賀市)領内で作られた物のみが九谷焼と言われていたようである。
時代は変わり現在では石川県下広範囲に産地が広がり伝統的な九谷焼を伝承する一方、新感覚の技法や意匠も開発されてきたのだという。  

館は窯跡と窯小屋と工房・展示棟に分かれていた。
覆屋の中、「山代再興九谷窯跡」は私にエーゲ海沿岸に残るローマ時代のギリシャ人都市遺跡(2013年 Ephesus)を思い出させるような凄さを感じた。
         

窯小屋には登り窯と錦釜があった。昔の消火器も置かれていて興味が増した。ふと信楽の登り窯を思い出し、それよりも小さかったが、昭和15年から40年頃まで本焼きの窯として実際に使われ、一回の窯詰めで1000個が入ったそうである。真っ赤な炎を噴き出す焚口を想像したり、真っ赤な窯の中の皿や花瓶や茶器等を想像して何だかわくわくした。
登り窯の焼成を本焼きといい、1300度の温度で三昼夜焼き続けるそうだ。薪は赤松の木で1回に5000~6000本も使うとか。
主な製品は白磁、青磁、染付で、カラフルな上絵付けをして焼くのは錦釜と呼ばれる窯で、色を綺麗に焼き付けるには火や煙が直接当たらない様に外釜と内釜の二重構造になっていて、温度は800℃位だそうだ。稼働中の錦釜の絵葉書(下段写真右端)を下さった。
         

工房・展示棟では蹴ろくろ体験や絵付け体験コーナーがあった。九谷五彩{緑、黄、赤、紫、紺青(コンジョウ)}と呼ばれる和絵具を使って自分だけの器作りも楽しいかもなぁ~。

靴を脱いで上がる展示室では囲炉裏に火が入れられていて、偶々「お茶を飲みませんか?良かったら入れて差し上げますよ。」と声を掛けて下さった。びっくりしたが、ご厚意に甘えて飲んだお茶の美味しかったこと!このような場所で、まるで陶芸人の気分で楽しんだよ。(笑)土と炎を愛する山代男性の心が伝わり旅の思い出が倍になった。

          

一泊2日の旅はやっぱり忙しく、「あいうえお小径」と古総湯に少々未練を残しながらも色々な発見に心満たされ、キャンバス利用で加賀温泉駅に向かった。お疲れさま。






























この記事についてブログを書く
« 黒ニンニク作り | トップ | 新生姜 »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事