伊勢神宮に到達まで今回を含め後三回のハイクツアーとなった。
一昨日は柿野~小片野~茅原~多気、約12km、約4時間の歩きであった。まとめておこう。
10月10日(水)
近鉄大和八木午前9時の出発。歩きのスタートは11時30分、松阪市飯南町横野、柿野神社付近の国道368号線が166号線と交わる地点からであった。。小雨がパラつき、あれっ!今日はこんなこと無いはずなのに・・・と参加者60人は口々にそう言いながら歩き出した。10分あまり歩くと宝積寺(ほうしゃくじ)の境内に入った。
伊勢本街道の道標があるからだった。文字は全く読めなかったが「みえ歴史街道マップ」によると、正面には「みぎにはせみち ひだりき志うよしのみち」右側には「ひだりいせみち」左側には「天明二壬寅十一月」と刻まれているそうだ。
壬寅とは「みずのえとら」と読み前回柿野神社で学んだ干支で、天明二は江戸時代の1782年に当たる。道標は和歌山街道と伊勢本街道の交差点にあったものが道路の拡張工事でこちらに移設されたとのこと。街道の道標は元の位置にあって欲しいものだが、こうして止むを得ない理由でこちらに保存されているらしい。
(画像はクリックすると拡大する)
今回はずっと櫛田川左岸に沿って歩くようになっている。伊勢湾に流れ込むこの川の源流は奈良県との県境にある高見山辺りにあるそうだ。「恵美須河原」から川の中を覗くと大きな岩がごろごろと連なっていた。
まもなく庚申堂があって、正面の石垣に組み込まれた道標には「大石宿 これより宮川へ七里 はせよりここまで十五里半」と刻まれているそうだ。ココは大石町、大石は「おいし」と読むらしい。
そこから15分程歩いた所に在る常夜灯、太神宮と刻まれていたそうだが、知らずに撮った方向には確認できず残念。。。。。予備知識を持って歩くべきと思う事度々・・・・・(-_-;)
そこは大石不動院境内の西の端ということで、そのまま境内奥に進んで昼食タイムとなった。
落差10mある二条の滝・「不動滝」(夫婦の滝)があって、滝の好きな彼はわざわざ滝壺の前でお弁当を食べていたよ。(笑)
彼が撮った滝正面の写真をもらおう。右横の岩壁には不動明王が祀られているようで、分り難いが、画面右中ほどの暗い部分の中央に小さく写っているよ。
こちらの本堂は弘法大師の創建と伝えられていて、本堂から石段を数段登ると左手に大師堂があった。もっと上に登れば「ほうろく岩」なる巨岩があり展望台になっているようであるが、集合時間が気になって登るのを途中で諦めた。
又この岩には国指定天然記念物のムカデランが着床していて有名らしい。
12時30分午後の歩きが始まり、R166号線道路から見上げると高さ30m近くあるという「ほうろく岩」の天辺が見えていた。
道路右手に櫛田川に架かる波多瀬橋を見て歩き続けること20分、ここは小片野町(おかたの町)。頂いた栞に書かれている根尽坂(乞食坂)とはどんな坂かと期待していたが、添乗員さんに尋ねた時にはもう既に通り過ぎたという。
それ程の傾斜を感じずに歩いていたので気付かなかったよ。
これも彼の写真をもらって坂のあった町並みを投稿しておこう。
名前の由来は交通機関の無い昔、お伊勢詣での人達は体力も財も使い果たしてヘトヘトになってこの坂を歩いていたのだとか?・・・でも念願が叶ったのだから心は豊かだったに違いないよネ。
県道700号線を歩いて旧道に入った。三叉路に頭部だけが残されている道標があって、それでも例の伊勢本街道冊子にはきちんと載せられ、街道の道案内にはなっている。シャッターを切る人が数人居た。道標に寄せる街道ファン共通の心境か?(笑)
茅原町に入った。トイレ休憩に公民館に立ち寄る。綺麗な石垣手前の坂を上ると櫛田川に架かる赤い津留橋が太一石柱の向こう見えた。
いよいよ街道歌の“こわいとこ”の一つ津留の渡し跡に来た。茅原町と対岸の多気町(たき町)を結ぶ“渡し”で川の中には「はかり岩」と呼ばれる岩が在り、水かさが増してこの岩が水没すると渡しは危険なので中止になったそうだ。昭和4年に津留橋が架けられるまで、お伊勢参りの難所となっていたわけだ。
川岸に南無阿弥陀仏の六字名号碑と「右さんくう 左まっさか 道」の道標があった。
津留橋を渡って多気町の旧道に入るとここにも見事にきれいな石垣が在って、傍らに自然湧水の用水池があった。石垣の風景私にはなかなか素敵に思えた。
石垣と石垣の間の細い道を通り抜けると三叉路に二体のお地蔵様と廻国供養碑(下段写真右から2番目)が並んでいた。例の冊子によると、左が『道別れ地蔵』で「右はせミち法誉是 左にうミち秀誉円清」と刻まれているそうである。右は『生き倒れ地蔵』、そしてその横の供養碑には「はせ迄十七里」と刻まれているとのこと。
こういうのを目にすると伊勢本街道を歩いている実感が増してくる。“お伊勢参り”は命を落としても一生に一度は体験したい旅だったんだなぁ~と・・・・・
伊勢自動車道をくぐって多気町鍬形という所に来た。高さ1m半あるという仏足石碑(下段写真右端)が建っていて、磨かれた御影石ではなく自然石でなかなかいい感じ!草鞋(わらじ)が数足掛かっていた。きれいなお花も添えられて地域の人達のほのぼのとした信仰心が伺える。
それからいくつかの道標や石碑を見ながら歩くこと20分、多気町井内林、「伊瀬三郎物見の松」に来た。5代目の松らしい。伊瀬三郎とは源義経の家臣で、この松に登って敵の軍勢を見張ったという伝説があるそうな。側には廻国供養塔と「いぼ地蔵」が並んでいる。
足も大分疲れてきた。バス待機の場所までもう一息!ゴールの佐伯中の標識を見た。辺り一面に広がる作物は一体何かと尋ねると収穫の近い伊勢芋だそうだ。粘りの強いあのとろろ芋、きっと大和芋と同じく美味しい“とろろ”になるのだろう。
時刻は午後3時50分全員完歩!出発時の小雨もほんの5分程度で止み、秋晴れの実にいい一日だった。おつかれさまでした。
一昨日は柿野~小片野~茅原~多気、約12km、約4時間の歩きであった。まとめておこう。
10月10日(水)
近鉄大和八木午前9時の出発。歩きのスタートは11時30分、松阪市飯南町横野、柿野神社付近の国道368号線が166号線と交わる地点からであった。。小雨がパラつき、あれっ!今日はこんなこと無いはずなのに・・・と参加者60人は口々にそう言いながら歩き出した。10分あまり歩くと宝積寺(ほうしゃくじ)の境内に入った。
伊勢本街道の道標があるからだった。文字は全く読めなかったが「みえ歴史街道マップ」によると、正面には「みぎにはせみち ひだりき志うよしのみち」右側には「ひだりいせみち」左側には「天明二壬寅十一月」と刻まれているそうだ。
壬寅とは「みずのえとら」と読み前回柿野神社で学んだ干支で、天明二は江戸時代の1782年に当たる。道標は和歌山街道と伊勢本街道の交差点にあったものが道路の拡張工事でこちらに移設されたとのこと。街道の道標は元の位置にあって欲しいものだが、こうして止むを得ない理由でこちらに保存されているらしい。
(画像はクリックすると拡大する)
今回はずっと櫛田川左岸に沿って歩くようになっている。伊勢湾に流れ込むこの川の源流は奈良県との県境にある高見山辺りにあるそうだ。「恵美須河原」から川の中を覗くと大きな岩がごろごろと連なっていた。
まもなく庚申堂があって、正面の石垣に組み込まれた道標には「大石宿 これより宮川へ七里 はせよりここまで十五里半」と刻まれているそうだ。ココは大石町、大石は「おいし」と読むらしい。
そこから15分程歩いた所に在る常夜灯、太神宮と刻まれていたそうだが、知らずに撮った方向には確認できず残念。。。。。予備知識を持って歩くべきと思う事度々・・・・・(-_-;)
そこは大石不動院境内の西の端ということで、そのまま境内奥に進んで昼食タイムとなった。
落差10mある二条の滝・「不動滝」(夫婦の滝)があって、滝の好きな彼はわざわざ滝壺の前でお弁当を食べていたよ。(笑)
彼が撮った滝正面の写真をもらおう。右横の岩壁には不動明王が祀られているようで、分り難いが、画面右中ほどの暗い部分の中央に小さく写っているよ。
こちらの本堂は弘法大師の創建と伝えられていて、本堂から石段を数段登ると左手に大師堂があった。もっと上に登れば「ほうろく岩」なる巨岩があり展望台になっているようであるが、集合時間が気になって登るのを途中で諦めた。
又この岩には国指定天然記念物のムカデランが着床していて有名らしい。
12時30分午後の歩きが始まり、R166号線道路から見上げると高さ30m近くあるという「ほうろく岩」の天辺が見えていた。
道路右手に櫛田川に架かる波多瀬橋を見て歩き続けること20分、ここは小片野町(おかたの町)。頂いた栞に書かれている根尽坂(乞食坂)とはどんな坂かと期待していたが、添乗員さんに尋ねた時にはもう既に通り過ぎたという。
それ程の傾斜を感じずに歩いていたので気付かなかったよ。
これも彼の写真をもらって坂のあった町並みを投稿しておこう。
名前の由来は交通機関の無い昔、お伊勢詣での人達は体力も財も使い果たしてヘトヘトになってこの坂を歩いていたのだとか?・・・でも念願が叶ったのだから心は豊かだったに違いないよネ。
県道700号線を歩いて旧道に入った。三叉路に頭部だけが残されている道標があって、それでも例の伊勢本街道冊子にはきちんと載せられ、街道の道案内にはなっている。シャッターを切る人が数人居た。道標に寄せる街道ファン共通の心境か?(笑)
茅原町に入った。トイレ休憩に公民館に立ち寄る。綺麗な石垣手前の坂を上ると櫛田川に架かる赤い津留橋が太一石柱の向こう見えた。
いよいよ街道歌の“こわいとこ”の一つ津留の渡し跡に来た。茅原町と対岸の多気町(たき町)を結ぶ“渡し”で川の中には「はかり岩」と呼ばれる岩が在り、水かさが増してこの岩が水没すると渡しは危険なので中止になったそうだ。昭和4年に津留橋が架けられるまで、お伊勢参りの難所となっていたわけだ。
川岸に南無阿弥陀仏の六字名号碑と「右さんくう 左まっさか 道」の道標があった。
津留橋を渡って多気町の旧道に入るとここにも見事にきれいな石垣が在って、傍らに自然湧水の用水池があった。石垣の風景私にはなかなか素敵に思えた。
石垣と石垣の間の細い道を通り抜けると三叉路に二体のお地蔵様と廻国供養碑(下段写真右から2番目)が並んでいた。例の冊子によると、左が『道別れ地蔵』で「右はせミち法誉是 左にうミち秀誉円清」と刻まれているそうである。右は『生き倒れ地蔵』、そしてその横の供養碑には「はせ迄十七里」と刻まれているとのこと。
こういうのを目にすると伊勢本街道を歩いている実感が増してくる。“お伊勢参り”は命を落としても一生に一度は体験したい旅だったんだなぁ~と・・・・・
伊勢自動車道をくぐって多気町鍬形という所に来た。高さ1m半あるという仏足石碑(下段写真右端)が建っていて、磨かれた御影石ではなく自然石でなかなかいい感じ!草鞋(わらじ)が数足掛かっていた。きれいなお花も添えられて地域の人達のほのぼのとした信仰心が伺える。
それからいくつかの道標や石碑を見ながら歩くこと20分、多気町井内林、「伊瀬三郎物見の松」に来た。5代目の松らしい。伊瀬三郎とは源義経の家臣で、この松に登って敵の軍勢を見張ったという伝説があるそうな。側には廻国供養塔と「いぼ地蔵」が並んでいる。
足も大分疲れてきた。バス待機の場所までもう一息!ゴールの佐伯中の標識を見た。辺り一面に広がる作物は一体何かと尋ねると収穫の近い伊勢芋だそうだ。粘りの強いあのとろろ芋、きっと大和芋と同じく美味しい“とろろ”になるのだろう。
時刻は午後3時50分全員完歩!出発時の小雨もほんの5分程度で止み、秋晴れの実にいい一日だった。おつかれさまでした。