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答志島へ

2018-12-21 | 日記

さて、今朝鉢植えの蝋梅が二輪咲いた。嬉しいなぁ~
彼も無事退院できて(11月15日、22日、29日 12月13日)、2人で答志島へ1泊2日旅が実現した。

  12月19日(水)
近鉄特急『しまかぜ』に乗った。名古屋、大阪難波、京都と三重県賢島を結ぶ1日1往復の伊勢志摩観光特急である。2013年、伊勢神宮の第62回神宮式年遷宮のタイミングに合わせて造られたと聞いている。ガラス張り6面体の車体先頭の形状そしてクリスタルホワイトと伊勢志摩の晴れやかな空をイメージしたと言うファインブルー、風が吹いて流れるロゴマーク入りの塗装列車が出現した当初はその格好良さに誰もが目を見張ったものだ。
  
ゆったり空間に設置されたプレミアムシートに座ると想像以上にふんわりと優しく体を包んでくれて、とても心地よく、腰部のエアークッションのリズムボタンを押すと軽くもみほぐしてくれて気持ちいい。揺れも極少でとても静かに走るので快適だ。
カーテンが電動で上下するのにもびっくり。1号車と6号車は展望車両になっている。4号車は大きいテーブルのあるサロン席、和風・洋風の個室もあってグループ旅行にはいいと思うが、兎に角プレミアムシートの感覚を楽しむべし。(笑)

         (画像はクリックすると拡大する)
  
3号車のカフェ車両の2階でお茶しながら外の景色を眺めていると「斎宮」の看板が目に飛び込んできて、6年程前に伊勢125社巡りをした時を思い出した。前々回のページに投稿したトキワシノブは、斎宮で買って帰ったシノブである。
予期せぬ瞬間で嬉しかった。(笑)確か伊勢市駅と宇治山田駅の間だったかな。
  
『しまかぜ』は、『アーバンライナー』に初めて乗った時以上の感動があって、特急料金にしまかぜ特別車両料金1030円の追加は安かった。(笑)

停車駅〈大阪難波 ~ 賢島〉は 大阪難波、大阪上本町、鶴橋、大和八木、伊勢市、宇治山田、鳥羽、鵜方、賢島
12時31分鳥羽に着き、鳥羽マリンターミナル「佐田浜」からフェリーで答志島の「答志」まで行き、「和具」に宿泊を予定していた。
佐田浜~和具は6.4km、和具~答志へは3.2kmらしい。

少々寒かったが2階デッキで爽やかな潮風と霧のような水しぶきを浴びながら伊勢湾の海の青と空の青を思いっきり楽しんだ。
和具港、答志港には漁船がずらりと並んでいる。島の人達は皆漁業に携わっているんだよな。
蛸壺の山やウツボ等がこびりついたガラクタの山はまるで芸術品を見ているようだった。
赤い橋を渡ると「八幡神社」、神様は高い所から島の人達の安全を見守っておられるのだ。赤い橋の下を何隻もの船が行き来していた。よそ者の私も厚かましく一つのお願いをさせてもらった。

海辺の村は細い路地が巡り静かだったが、皆んな仲良し大家族のような雰囲気が漂っていた。
市場のお兄さんが60cm位の大きなスズキを見せてくれた。ビックリ!この魚の名は先日静岡の三保灯台の前の浜辺で耳にしたばかりで、こんなに大きくなる魚だとは思っていなかった。
海女小屋があった。海から上がった海女さん達が石で囲んだ暖炉で体を温め、食事をしながら雑談に花を咲かせられる場所なのだろうか。サザエのつぼ焼きやイカの丸焼き料理等もされるかもしれないよな。その香りと味を想像でいただいた。(笑)
           

彼は「岩山古墳」に行こうと思っていたようだが、その登り口で出会った村のお年寄りが、今年の台風で道が崩れて歩けなくなっているから危ない!と教えて下さった。
色んな話を聞かせてもらっている内に会話が弾み、すっかり打ち解けて一緒に写真も撮らせて下さった。その方の日に焼けた優しいそれでいて漁師の妻として長年やってこられた人生に屈託のない笑顔と声が今でも目の前に浮かんでくる。

旅館のある「和具」に向かって保育園を過ぎ小学校を過ぎ進んでいくと、「美多羅志(みたらし)神社」があった。
その名の由来は、宿の女将さんから聞くところによると「美」は美称「多羅志」は古代の海女族タラシー族からきているそうである。そうか・・・この島では特に海女さんの役割は大きいんだと解った。
八幡神社でもそうであったが、拝殿の鈴の下には“むしろ”が敷かれている。皆さん、ひざまづいてお参りするのかな。島の人達の神様への敬虔な気持ちが伝わる光景で、私も身が引き締まった。

        

宿では夕食も朝食も自分達の部屋で準備してもらえて、こんなの何十年ぶりかと大喜びした。新鮮なイセエビとサザエとアワビは最高、コリコリのアワビは彼には無理で私が頂いた。(笑)
ゆっくりのんびり自由気ままな2人旅にお酒と新鮮魚介類が有れば、夕食にこれ以上の贅沢は要らなかった。ごちそうさまでした。


  12月20日(木)
宿を出てからトンビの鳴く浜辺でしばらく海を眺め、九鬼嘉隆 【 (くきよしたか) 戦国時代の鳥羽城主で、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍武将として活躍 】の史跡に立ち寄り和具港に来た。
午前9時58分発のフェリーに乗ると、なんと夕べの客達に手を振って見送って下さっている女将さんに気付いて、私も思い切り手を振って別れた。  

鳥羽に戻り、近鉄特急で松阪城跡に寄ってから帰る事にした。
私には三度目の松阪であるが昼間の駅は初めてで、大きな駅鈴に驚いた。この駅鈴は江戸時代の国学者・本居宣長の生家「鈴屋」という屋号に因んでいるらしい。

松阪肉で有名な「和田金」の前を通りライオン像がある四つ角に来て、ソコで左折、直進すると城跡だが、“松阪もめん”も見たかったので手織りセンターに立ち寄った。それから本居宣長宅跡(現在はお城の隠居曲輪に移転されている)へ、そして三井家発祥地で生家跡は非公開であったが「越後屋」でその名を知る三井高利氏の説明板を読んだ。
へぇ~ 本居宣長はこの地出身の人だったのか、三井財閥はココから大きくなったのか・・・・・

大手門跡の石標を目の前にして、右手に松阪市役所、マンホールカード配布の“のぼり”を見た。やったー!私はそのカードを収集中で、5枚目が偶然に松阪とは!私は迷わず市役所のドアを開けた。牛の絵柄に私の喜びは倍増した。市役所の人にも私の喜びが伝わって、「良かったですね。」と笑顔で渡して下さった。(笑)

      

さて、松阪城(松坂城)は100名城の1つ(48番目)と知るだけでお城に関する知識は全く持ち合わせず、ただ石垣と御城番屋敷を見たかっただけで立ち寄ったのである。石垣(野面積み)は私の想像以上に高くちょっとびっくりした。。各曲輪を一周、何処もお掃除が行き届いて綺麗だった。
御城番屋敷で聞いたお話では、蒲生氏郷(がもう うじさと)が築き、1588年に入城したそうな。でも松阪は江戸時代は紀州徳川家の領地であり、お城もそちらの管轄下にあったらしい。

松阪城の警備をする紀州藩士が住んだ長屋形式の武家屋敷・御城番屋敷は昔のままの姿を留めているそうで、石畳と槙の生垣には大へん趣があり、足を運んで良かったと思った。石畳は搦め手門に通じているそうだ。
公開されていた一部屋は無料で見せてもらえた。
片隅に置いてあった植物、これぞまさしく数日前から私が探し求めていた花であり、「マユハケオモト」と教えてもらったのも良かった。

          

特急時間に制限ありで慌しい散策ではあったが、今日のところは充分満足できた。
年の瀬が迫り何かと気ぜわしい時期での旅だったので尚更思い出深く、ずっと記憶に残るだろう。