朝6時50分廊下に掛かる温度計の赤い水銀は6.5℃を表示。寒い!カーテンを開けると外はなんと雪景色、初雪を見た。嬉しいはずの雪なのに今日は驚きと同時に伊勢本街道の歩き田丸から外宮まで約8kmの寒さが心配になった。
12月9日(日)
午前9時大和八木駅前を出発してツアーバスが田丸城跡の駐車場に入ったのは11時50分。昼食と田丸城跡の見学を各自で済ませて12時30分、玉城中学校の門前広場に集合となった。
今回の参加者40名はそれぞれお気に入りの場所を選んで散らばった。石垣の上は風が強くあまりにも寒かったので、私達二人は「富士見門」の傍らの陽だまりで腰を下ろした。紅葉が少し残っていた。
田丸城の難しい歴史はさておき、後醍醐天皇の御代・南北朝時代1336年に南朝方の拠点として北畠親房(きたばたけ ちかふさ)、顕信(あきのぶ)父子によって築かれたお城で、その後は稲葉氏や藤堂氏や久野(くの)氏が城主となり明治2年に廃城となったそうである。そう言えば、前回に見た「赤門久野」の案内板を思い出す。ちなみに北畠氏は1392年両朝が合一し、南伊勢の国司になったようである。
三の丸、二の丸そして本丸跡へと続く坂道は屈曲していて、虎口(こぐち)と呼ばれる各郭(くるわ)への出入口は石垣で囲まれていた。兎に角この城跡は石垣がすばらしい!天守閣は工事中であったが天守台の石段は登ることができたのて、方向感覚が解らないまま伊勢の街を見渡して目に納めた。
三の丸跡に建つ玉城中学校の学生さんが居たので、「お城跡に学校があるなんてステキね!」と話しかけると彼女はにっこりしてうなずいていたよ。
いよいよ歩きが始まった。前回に見た大手町のあの紀州街道道標をみて進んで行くと、風情のある家があった。本来白壁か黒壁のはずが下段左端写真のような造りで、どんな人が住んでいるのだろうと思う。旅籠扇屋跡(下段左から2番目)や小林政太郎生家(左から3番目)もあった。
小林政太郎氏(1872~1947年)とは寒天とでんぷんから柔軟オブラートを発明したお医者さんだそうで、私の子供の頃苦い粉薬をオブラートに包んでもらって飲んだ記憶が残っている。今の薬はカプセルになっているんだよな。
どんどん進んで右手に両宮常夜燈を見てJR参宮線の上地(うえぢ)踏切を越えた。上地町は伊勢市だから、いよいよ伊勢に入ったんだとちょっと嬉しくなった。小さな汁谷橋の道沿いにある「庚申さん」の注連縄は真新しく気持ちが引き締まった。この辺りの景色は見渡す限り田んぼが広がっている。東屋のある休憩所で一休みとなった。
和合橋(わごうばし)を過ぎてまもなく「伊勢まで4km」の標石を見た。
更に進んで午後1時55分宮川の堤防手前に来ると右手に尾崎咢堂(おざき がくどう)記念館の白い建物があった。尾崎咢堂???頭の中を探ってみたが出てこない。
咢堂は号、名は行雄、明治23年から昭和27年までの長期間衆議院議員を務め大隈内閣の文相・法相等を歴任した人であり、昭和29年95歳で亡くなられたそうだが政界では「憲政の神様」と言われているそうだ。
日本の桜・ソメイヨシノの苗木をアメリカに贈った人でもあるらしい。
記念館の傍らに「柳の渡し跡」の古い案内板があった。「津留の渡し跡」に比べて案内板1つの、私には期待外れの渡し跡であった。期待を大きく持ち過ぎたのかなぁ・・・
頂いた栞に書いてあったのをメモっておくと「川はた 柳ともいう。 宮川渡しぜにいらず 川ばたにて子ども出て参宮人の代こりをとる 一人前一文づつ」、なにかしら心が痛む・・・・・
ここは関西方面からの参拝客が利用した渡しで、関東、東海方面からの人は2~3km下流にある「桜の渡し」を利用し、なお2kmほど下流には「磯の渡し」があったそうだ。
いづれの渡しもこれだけ幅広い川を手漕ぎの舟で渡るのは大変であっただろう。当時の情景を想像しながら、長さ362mの長い度会橋(わたらいばし)を渡った。
宮川堤は「さくら名所100選」の1つのようである。桜並木を強風にあおられ乍ら歩いて堤防を下るとそこはもう賑やかな街中、県道22号線であり、「伊勢神宮(外宮)1km」の標識を見て気持ちが弾んだ。
伊勢本街道を歩く人、熊野街道を歩く人、参宮街道を歩く人達がここを通るので有名らしいコンクリート製の欄干だけの橋、筋向橋(すじむかいばし)に来た。擬宝珠は嘉永2年(1849年)のものだそうだ。下を流れるのは宮川の支流・清川らしいが今は暗渠となっている。そう言えば先ほど案内人さんが「この下に清川が流れています。」と教えて下さった場所があったよナ。
更に行くと1676年創業という漢方、小西万金丹(まんきんたん)薬舗があった。江戸期伊勢の伝統的な「切妻造り」の建物として大切に残されているようで立派な風格があった。
午後2時50分ついに到着!外宮・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の北御門参道入口の大樹の前に立った。
裏参道から入って御厩に神馬・「笑智号」(えみとも号)の姿があった。前回来た時は不在で残念な思いをしたのだが、今回は嬉しい。大人も子供も年寄りも皆んな立ち止まる。参拝客を見守る静かな物腰に私の心も次第に落ち着いた。
「笑ちゃ~ん元気でネ!」と立ち去ったあのおばちゃんは大阪のおばちゃんか?私は思わず笑ってしまったよ。
神馬に会えてそれだけで充分満足できたので今回は御正殿まで向かわず、神楽殿の前を通りそのまま進んで勾玉池を覗き駐車場に向かった。裏参道から入り表参道から出てきたわけだ。神宮の中は何時来ても沢山の人達がそれぞれの思いで粛々と歩いていられる。これほどまでに気持ちが落ち着くのは本当に不思議だなと思う。
来年の式年遷宮に向けて鳥居の柱に飾る榊(さかき)の枝も順番に次々と取り換えられているそうだ・・・・・
午後3時半バスは神宮を後にした。今回皆さんのお顔は、それほどの疲れもなく晴々していた。
鞍取り峠からお世話になったこのバスハイクは来年一月外宮~内宮へのもう一回で終りとなる。我ながら実によく歩いた一年だったと思う。歩き始めたのは枚岡神社からの暗峠越えの彼と二人の歩きだったので、「伊勢本街道の歩き」としては起点の大阪玉造稲荷から奈良県南生駒の枚岡神社間が未踏である。それを是非埋めたいと思うが、とりあえず新年を迎えてから動くことにしよう。
12月9日(日)
午前9時大和八木駅前を出発してツアーバスが田丸城跡の駐車場に入ったのは11時50分。昼食と田丸城跡の見学を各自で済ませて12時30分、玉城中学校の門前広場に集合となった。
今回の参加者40名はそれぞれお気に入りの場所を選んで散らばった。石垣の上は風が強くあまりにも寒かったので、私達二人は「富士見門」の傍らの陽だまりで腰を下ろした。紅葉が少し残っていた。
田丸城の難しい歴史はさておき、後醍醐天皇の御代・南北朝時代1336年に南朝方の拠点として北畠親房(きたばたけ ちかふさ)、顕信(あきのぶ)父子によって築かれたお城で、その後は稲葉氏や藤堂氏や久野(くの)氏が城主となり明治2年に廃城となったそうである。そう言えば、前回に見た「赤門久野」の案内板を思い出す。ちなみに北畠氏は1392年両朝が合一し、南伊勢の国司になったようである。
三の丸、二の丸そして本丸跡へと続く坂道は屈曲していて、虎口(こぐち)と呼ばれる各郭(くるわ)への出入口は石垣で囲まれていた。兎に角この城跡は石垣がすばらしい!天守閣は工事中であったが天守台の石段は登ることができたのて、方向感覚が解らないまま伊勢の街を見渡して目に納めた。
三の丸跡に建つ玉城中学校の学生さんが居たので、「お城跡に学校があるなんてステキね!」と話しかけると彼女はにっこりしてうなずいていたよ。
いよいよ歩きが始まった。前回に見た大手町のあの紀州街道道標をみて進んで行くと、風情のある家があった。本来白壁か黒壁のはずが下段左端写真のような造りで、どんな人が住んでいるのだろうと思う。旅籠扇屋跡(下段左から2番目)や小林政太郎生家(左から3番目)もあった。
小林政太郎氏(1872~1947年)とは寒天とでんぷんから柔軟オブラートを発明したお医者さんだそうで、私の子供の頃苦い粉薬をオブラートに包んでもらって飲んだ記憶が残っている。今の薬はカプセルになっているんだよな。
どんどん進んで右手に両宮常夜燈を見てJR参宮線の上地(うえぢ)踏切を越えた。上地町は伊勢市だから、いよいよ伊勢に入ったんだとちょっと嬉しくなった。小さな汁谷橋の道沿いにある「庚申さん」の注連縄は真新しく気持ちが引き締まった。この辺りの景色は見渡す限り田んぼが広がっている。東屋のある休憩所で一休みとなった。
和合橋(わごうばし)を過ぎてまもなく「伊勢まで4km」の標石を見た。
更に進んで午後1時55分宮川の堤防手前に来ると右手に尾崎咢堂(おざき がくどう)記念館の白い建物があった。尾崎咢堂???頭の中を探ってみたが出てこない。
咢堂は号、名は行雄、明治23年から昭和27年までの長期間衆議院議員を務め大隈内閣の文相・法相等を歴任した人であり、昭和29年95歳で亡くなられたそうだが政界では「憲政の神様」と言われているそうだ。
日本の桜・ソメイヨシノの苗木をアメリカに贈った人でもあるらしい。
記念館の傍らに「柳の渡し跡」の古い案内板があった。「津留の渡し跡」に比べて案内板1つの、私には期待外れの渡し跡であった。期待を大きく持ち過ぎたのかなぁ・・・
頂いた栞に書いてあったのをメモっておくと「川はた 柳ともいう。 宮川渡しぜにいらず 川ばたにて子ども出て参宮人の代こりをとる 一人前一文づつ」、なにかしら心が痛む・・・・・
ここは関西方面からの参拝客が利用した渡しで、関東、東海方面からの人は2~3km下流にある「桜の渡し」を利用し、なお2kmほど下流には「磯の渡し」があったそうだ。
いづれの渡しもこれだけ幅広い川を手漕ぎの舟で渡るのは大変であっただろう。当時の情景を想像しながら、長さ362mの長い度会橋(わたらいばし)を渡った。
宮川堤は「さくら名所100選」の1つのようである。桜並木を強風にあおられ乍ら歩いて堤防を下るとそこはもう賑やかな街中、県道22号線であり、「伊勢神宮(外宮)1km」の標識を見て気持ちが弾んだ。
伊勢本街道を歩く人、熊野街道を歩く人、参宮街道を歩く人達がここを通るので有名らしいコンクリート製の欄干だけの橋、筋向橋(すじむかいばし)に来た。擬宝珠は嘉永2年(1849年)のものだそうだ。下を流れるのは宮川の支流・清川らしいが今は暗渠となっている。そう言えば先ほど案内人さんが「この下に清川が流れています。」と教えて下さった場所があったよナ。
更に行くと1676年創業という漢方、小西万金丹(まんきんたん)薬舗があった。江戸期伊勢の伝統的な「切妻造り」の建物として大切に残されているようで立派な風格があった。
午後2時50分ついに到着!外宮・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の北御門参道入口の大樹の前に立った。
裏参道から入って御厩に神馬・「笑智号」(えみとも号)の姿があった。前回来た時は不在で残念な思いをしたのだが、今回は嬉しい。大人も子供も年寄りも皆んな立ち止まる。参拝客を見守る静かな物腰に私の心も次第に落ち着いた。
「笑ちゃ~ん元気でネ!」と立ち去ったあのおばちゃんは大阪のおばちゃんか?私は思わず笑ってしまったよ。
神馬に会えてそれだけで充分満足できたので今回は御正殿まで向かわず、神楽殿の前を通りそのまま進んで勾玉池を覗き駐車場に向かった。裏参道から入り表参道から出てきたわけだ。神宮の中は何時来ても沢山の人達がそれぞれの思いで粛々と歩いていられる。これほどまでに気持ちが落ち着くのは本当に不思議だなと思う。
来年の式年遷宮に向けて鳥居の柱に飾る榊(さかき)の枝も順番に次々と取り換えられているそうだ・・・・・
午後3時半バスは神宮を後にした。今回皆さんのお顔は、それほどの疲れもなく晴々していた。
鞍取り峠からお世話になったこのバスハイクは来年一月外宮~内宮へのもう一回で終りとなる。我ながら実によく歩いた一年だったと思う。歩き始めたのは枚岡神社からの暗峠越えの彼と二人の歩きだったので、「伊勢本街道の歩き」としては起点の大阪玉造稲荷から奈良県南生駒の枚岡神社間が未踏である。それを是非埋めたいと思うが、とりあえず新年を迎えてから動くことにしよう。