故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

いつかは、やらねば

2018-03-18 07:25:30 | プロジェクトエンジニアー

柑橘類の一種です。柚子でしょうか。
見た目が悪いけど、きっと何か思うことがあって描いたのでしょう。


例によって、無理難題を押し付けられ粘りに粘って解決する夢を見ました。
目が覚め、夢を反芻し、あれもこれもと次から次に思い出しました。
どれも悪夢です。

今日のタイトルは、「いつかは、やらねば」です。
サービスエンジニアとして入った外資系の会社でした。
一度見た機械について、それからはお前がスぺシアリストだと上から言われました。
本気とも冗談とも取れるような顔でした。
オープン型の3本のロードセルで吊ったスケールでした。
初めて買う製粉会社で、機械の構造と通信方法を説明しました。
果ては、日本でOEMで作る会社を探して、見積もりを取ってこい。

理科は、目で見て分かる生物、地学や物理は好きでした。
化学は嫌いでした。反応式が特に苦手でした。
数学で、微分積分にてこづったのと似ています。
電気も駄目でした。

なんとか友人のつてを頼って、オーナー企業の小さな会社に見積もりをしていただきました。
機械の図面、電気の回路図、シーケンス図を秘密協定を結んで見ていただきました。

同じく、ロードセルと通信箱を売る仕事もしました。
スケール本体は、日本で作りソフトだけ売る仕事です。
現場にそんなスケールを8台据え付け試運転になりました。
動きません。
日本の電機業者に説明に来たイギリス人に国際電話をかけて、解決方法を相談しました。
問題内容を理解していないまま、起こっていることをとつとつと
一時間あまり説明しました。結局は、日本のパネル業者のシーケンサーの選定ミスでした。

サービスで入った一年目。バブルがはじける前でした。
機械は大いに売れていました。
初めて見るロール機を直してこい。
新幹線でたまたま会った前年スタートアップした製粉会社の技術部長に、
これから向かう修理の件について相談しました。
ロール機が振動して困っている。
部長の見解は、
ヘリカルギアの歯が減り底辺り(ギアの山が相手側のギア谷に食い込む)でした。
訪ねた製粉会社でさっそく修理にかかりました。相手は気難しそうな方でした。
ギアの外し方さえ知らぬ私でした。
問題(振動)を聞いて、同じ歯数の負荷の少ない他のギアと交換してくださいと
メンテナンスの方に依頼しました。新しそうなギアに交換したら振動はいくぶん納まりました。
これを見て、技術部長は新しいギアを買い、交換することを依頼してくれました。
その晩は、初めて食べる魚の白子をご馳走していただきました。

それからも、どうあれば良いのですかと現場で質問しました。
果ては、この問題部分はどういう構造をしているのですかと
メーカーの人間にあるまじき質問をしました。
藁をもつかむ心境の人は正直です。
機械の要素を理解できる私は、こうしたらどうでしょうと提案をします。
はあ、そういう考え方もあるかと現場の人は動いてくれました。
不思議と治ったのです。

外資系会社の前の日本の穀物関連のメーカーに勤めていた頃、
現場にスタートアップ要員として、放り込まれました。
入社一年目でした。穀物搬送スクリューの羽根がめくれてしまいました。
溶接部が取れたのです。
生の穀物はその日のうちに乾燥設備に回さないと腐ってしまいます。
現場には、私一人でした。
ガスボンベ(酸素とガス)を一人で運び、現場に落ちていた番線をガスバーナーで炙り
スリューの羽根を応急でつけましたら動きました。

何らかの故障で機械が止まってしまいました。
モーターのマグネットを強制的に押すと機械は動きました。
条件設定のどこかで支障が起きていました。この時も一人でした。
電気盤のなかに入っている電気図を開きました。
シーケンスなんて、一年生に判る訳がありません。
分らぬながら、モーターを動かす条件の番号通りにセンサーを確認しました。
一つのセンサーが破損していました。替えたら動きました。

外資系を辞めて、エンジニアリング会社に転職しました。
入ってばかりの私がいきなり任された仕事が、全ユーティリティーの制御でした。
会社の説明では、業者が全部やってくれるのでお前は黙ってみていればよいとのことでした。
いい加減です。
入ったばかりの男に6億円のプロジェクトマネージャーをさせるのですから。
電子通信(コンピューター)の用語は、外国語のように理解できませんでした。
マネージャーを見ずに業者とばかり話をする顧客の態度が残念でした。
顧客と打ち合わせる前に、業者と顧客質問事項について打ち合わせをしました。
書かれている用語の説明、内容を事前にレクチャーしてもらいました。
それ以来私が答えるようにしました。
顧客の態度は明らかに、まどろっこしいようでした。
しかし機械を知っているアドバンテージを活かし、
両方を答えるようになり信頼されるようになりました。

常に、「知らぬお前になにが分かる」という目に会いました。
顧客からも業者からもそういう目で見られました。
問題を知ったら、解決する能力はこちらが一枚も二枚も上です。
数々の無理難題に遭遇し、逃げずに食らいついた結果です。

「いつかは、やらねば」と問題に出会う度に、自分で調べ、専門家に尋ねました。
必ず、自分で応えました。
クレームの事例集を読み漁るようになり、
業界が発行している新しい解決方法を記した本を毎日10冊は読みました。
気になった記事は、残業時間にコピーを取りインデックスをつけて保管しました。
保管した資料が、役に立ったのは6年後ということもありました。
追いつくものじゃないと、問題の先取りでした。
常に見積もりを真剣にやりました。成約率は5%でした。
しかし、難問解決の引き出しは増える一方でした。
営業で回り始め、どんな相談にも乗るようにしました。
自分が売るものではないもの(経営、技術伝承、新規開拓など)も範疇でした。
なんでもありです。
この顧客が困っていることは、他の顧客も困っているに違いないと
思うようになりました。そのとおりでした。

いつでも、「いつかは、やらねば」と思っています。
いつかではなく「今」でした。
何十年も「今」だけで生きてきました。
そんな業界だったのです。

今昔 あんたが二十歳 われおぼこ

2018年3月18日
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