楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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清澄庭園―都立庭園へ行こう(その9)

2016年12月17日 05時13分38秒 | 東京の庭園
都立庭園は九つありますが、本日は 清澄庭園にきました。

一説には、この庭園は豪商 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられています。

(清住庭園1)

(清住庭園2)

(入場券売り場)


(享保年間には、下総の国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、
明治十一年、三菱の創業者 岩崎弥太郎がこの邸地を買い取り、
社員の慰安や貴賓を招待する場所として、庭園造成を計画、
明治十三年には「深川親睦園」として開園。
その後も造園は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を作り、
周囲には、全国から取り寄せた名石を配して、
明治を代表する「回遊式林泉庭園」として完成した。
大正十二年の関東大震災で大きな被害を受けた後、
現在の庭園部分を岩崎家より東京市が寄付を受け、
これを整備して昭和七年一般公開しました。)とある。(東京都)

(大泉水)


大泉水の向こう側にある、
この庭園で最も高く大きな築山、関東大震災以前は、
この築山の山頂近くには木を植えず、
サツキやその他ツツジ類の灌木を数列横に配して、
これらの花咲く状況が、
富士山にたなびく雲を表現したものと言われている。

(富士山)


富士山の右となりに池につき出る形で造られた数寄屋風の建物を、
涼亭(りょうてい)と言いますが、
この庭園を日本情緒豊かなものにしているのは、この涼亭によります。
この涼亭は、明治42年(1909)、
岩崎家が建てたもので、震災と戦火から免れ、
昭和60年全面改築され東京都選定歴史的建造物に指定されました。

(池に突き出る形の涼亭1)

(池に突き出る形の涼亭2)

(涼亭3)

この涼亭の後ろが春には花見が出来そうな芝生広場があり、
木陰に休息場所が設置されている。
その広場は今は桜の葉も紅葉してもみじ宴が出来そうだ。

この隅に芭蕉句碑があり、

・古池や蛙飛び込む水の音 はせを

と刻まれている。

(芭蕉句碑の広場)

(芭蕉句碑)


ここに芭蕉句碑があるのには、訳があります。
この清澄庭園の北側には小名木川があり、南側には仙台堀川が流れている。
仙台堀川の橋を渡った川べりに、
芭蕉が「奥の細道」に旅立った採荼庵(さいとあん)が有るからです。
今では、採荼庵とは名ばかりの、映画のセットよろしく、
縁側に腰を下ろした出立前の芭蕉翁、
正面から見たら庵の前に座っているように見えるが、
その背中にある障子は描かれた看板と言う方が正しい。
後ろ側には何も無い、草が生える空き地だ。

(映画セットの様な採荼庵)


(採荼庵についてはこちらを参照ください。)

芭蕉はこの採荼庵から清澄庭園の北側にある小名木川で舟に乗り、
隅田川に出て、千住大橋で船を降り、千住宿から奥州街道を進みました。

これで回遊式林泉庭園を一周したことになります。
清澄庭園の大泉水を渡る石組みを渡り、
石で出来た八つ橋を渡って、帰路に就きました。

(大磯渡り)

(石で出来た八つ橋)


この時期、都立庭園を五か所スタンプラリーをすると、
2017年の庭園カレンダーがプレゼントされるので、頂いて帰ってきました。

(2017年庭園カレンダー)


「都立庭園を訪ねる」はこれで全部、九庭園を回ったことになります。
目障りな紹介を飽きずにご覧いただきました皆様に御礼申し上げます。

ありがとうございました。




コメント (11)
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