十五歳の孫が遊びに来た。
お昼に御馳走したステーキを頬張って、
美味しい美味しいと言って食べた。
これ位、美味しそうに食べてくれると、ごちそうした甲斐がある。
ボクは年齢でカロリーの高いものは食べるのを遠慮している。
その所為か、自分中心に食べ物を選ぶから、
何時も食べるものがあっさりしていて、
孫には不人気であったに違いない。
自分のことだけ考えないで相手の立場も考えないといけないと、
つくづく思い知らされた。
十五歳の孫を見て、♪手紙~拝啓十五の君へ♪の歌と、
同じ年だったころの自分を思い出した。
アンジェラ・アキの歌、♪手紙~拝啓十五の君へ♪の中で、
「自分とは何で、どこへ向かうべきか、問い続ければ見えてくる。
あれた青春の海は厳しいけれど、
明日の岸辺へと、夢の舟と進め。(後略)」
アンジェラ・アキ 『手紙~拝啓 十五の君へ~』
この歌詞のように十五歳の春、
自分はいったい何で、この一生をどう生きたらよいのか、
自問自答した時がある。
「青春に読むべき100冊」の本を50冊近く読んで、
(人生は空しい)ことを悟った。
人間とは、「智恵、意志、感情を持った動物である。」と教わったが、
これ以上明快な解釈をボクは知らない。
そしてその構成は、感情がほとんど90%を占め、
残り10%が知恵と意志であると教えられた。
つまり水面に出た氷山の一角が知恵と意志であり、
海面下にある氷の塊が感情である、と言う。
人は生まれてきて、多種多様な生き方をし、死んでいく。
つまり、「生まれて死ぬ」ただ、それだけだ。
問題は、生まれて「何かをして」死ぬ、の「何か」だ。
この「何か」が解らない。
考え考え、結局「何か」を求めて何十年も生きて来てしまった。
結婚し子供を育て、生きて行くのに「一所懸命」であった。
もうこれ以上自分の能力ではどうにもできないほど、
何をするにも「一所懸命」であった。
思えばこの「一所懸命」が、その「何か」であることに気が付いた。
自分の一生はこれで良かったのか、日本人はどう思っているのか、
外国の人たちはどのように思っているのか、
そして今、芭蕉の歩いた道程(みちのり)を進んでみて、
芭蕉はどのように思っていたのか、訪ねている。
人生は五年残っているだろうか、
10年残っているだろうか、こればかりは解らない。
芭蕉ではないが、
・旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡り
そんな具合に、一生をかけ巡ってみたいものだ。
孫のステーキの食べっぷりを見ながら、そう考えた。
それが人生だ!!