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楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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     ・おくのほそ道を歩く

光了寺と茶屋松原(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 36)

2015年01月23日 09時18分46秒 | ひとり歩き旅
(中田宿)
栗橋宿から利根川を渡って中田宿に入る。
栗橋関所はもと利根川の中田宿側にあったものを、
利根川を挟んで栗橋側に移した。
利根川には橋が無く、房川渡しを舟で渡り中田宿から栗橋宿に行った。
関所は中田宿にあった時と栗橋宿にあった時があったので、
今では「房川渡し中田・栗橋関所」と呼んでいる。

旧日光街道を進むと浄土真宗大谷派 光了寺がある。
古河市観光協会によれば、

「光了寺は元は久喜市(旧栗橋町)にあり、静を葬ったので、
その遺品が寺宝として保存されています。
その一つが「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」。
後鳥羽院の寿永2年に大変な日照りに見舞われ、
高僧を招き雨乞いをしても雨が降らないので、
百人の舞姫を集め次々に雨乞いの舞を舞わせ百人目の静が踊ろうとした時、
天皇が静に御衣を与え、その御衣で舞ったところ、
たちまち大雨が降ったという。この衣が「蛙蟆龍の舞衣」で、
今も光了寺に保存されています。」とある。

(光了寺山門)

(山門前の石碑)


栗橋駅近くに、静御前の墓があることは以前書いた。
静御前が、東北に進んだ義経をしたって移動したことは文献にあるらしいが、
どこで、どうなったかは判明して居ないらしい。
しかし栗橋にあった光了寺に残した舞衣(まいごろも)によって、
ここで亡くなったと思われる。
光了寺山門前には、「祖師聖人並び靜女舊(旧)跡」の古い石碑が建っている。
また山門を入ると、右手に親鸞聖人像があり、
その横に「智恩報徳」の額が掛かった宝物殿がある。
ここに「木造聖徳太子立像」と
上記「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣(ぶえ)、義経かたみの懐剣」があると言う。(古河市観光協会)

(山門を入った右側の宝物殿)

(光了寺本堂)


山門から本堂までの参道左手に、芭蕉句碑が建っており、
次ぎの一句が刻まれている。

・いかめしき 音やあられの ひのき笠

(芭蕉句碑)


光了寺を出て、進むと右手に古河市立第四小学校の正門があり、
やがて東北本線の踏切にでる。踏切の向こうの道路左右に、
まだ若い木であるが松並木が見える。

(古河第四小学校)

(東北本線の踏切)


この辺り茶屋新田と言い、松並木があったところ。
夏は旅路に緑の蔭を、冬は風をさえぎり旅に風情を添えた。
幕末の志士 清河八郎は、
「ここから古河までは一里半の道のりで、
仙台道中最もきれいな松並木である。(中略)
その並木の松の間から古河の天守閣が眺められ、
時には富士山も雲の上に姿を顕し景色が大そうよい。」と、
旅行記に書いている。
昭和十三年には道路拡張のため根元は掘り上げられ、
松根油の製造に使われた。」と言う。

(往時の美しさが偲ばれる松並木の街道)


美しい松並木は古河宿まで続いたという。
徳川二代将軍秀忠が日光社参で御茶屋を設けたので、
この辺りは茶屋新田と言われるが、
松並木の中間地点に茶屋を設けた場所、
茶屋松原が残っている。

(茶屋松原)

(茶屋松原2)

日本橋から十七里、日光まで二十里の場所である。
この後方に茶屋新田の鎮守、香取神宮があり、
「宝永元年」(1704)に建立された旧神社は老朽化して、
平成二年香取神社氏子一同の手により再建された。

(再建された香取神社)


しばらく進むと左館林に抜ける354線との交差点があり、
これを越して直進すると、
道路脇に長く白い柵で囲まれた林が見えてくる。

(館林へ抜ける354線と交差する信号)

(柵に囲まれた林)


コメント (10)
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