上野の花見の後、東叡山寛永寺を訪ねました。
東叡山とは比叡山に対抗して、東の叡山すなわち東叡山として、
上野一帯が東叡山寛永寺であることは前回書いた。
比叡山には中心となる根本中堂があるのに、
東叡山の中心となる建物はあるのだろうかと、訪ねた。
どうしてかと言うと、東叡山は維新前夜の上野戦争でほとんどが灰に化したからだ。
しかし、残っている部分もあるらしい。
国立博物館を右折してすぐ左手に
「東叡山寛永寺 開山堂」がある。
門をくぐると右手に阿弥陀堂があり、鐘楼がある。
正面にあるのが開山堂である。
(東叡山寛永寺 開山堂の門)

(門を入ってすぐ右に阿弥陀堂)

(鐘楼)
(東叡山寛永寺 開山堂)

(手洗場の竜)

開山堂の右手に輪王殿があるが、
輪王殿に行くには小さな木の門をくぐらなければならない。
この門は、明治の文豪幸田露伴旧宅の門で、谷中にあったものを移築したもの。
瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など総て丸太造りで、
明治期のしもた屋(仕舞屋)の風情をとどめている。
露伴の代表作「五重塔」の主人公(のっそり十兵衛)は、
現在の寛永寺根本中堂を手掛けた大工の棟梁をモデルにしたと言われる。
(幸田露伴の腕木門)

(開山堂の右手に輪王殿)

輪王殿の前庭は広くとられていて、行事のある時の駐車場になるのであろうか。
その広場の先、露伴の腕木門の右手に黒塗りの門がある。
門と言っても出入り専用の門ではなく、
国の重要文化財になって展示してある門「寛永寺旧本坊表門」である。
(寛永寺旧本坊表門)

これは、台東区教育委員会の説明によると、
「江戸時代、東叡山には寛永寺の塔堂伽藍が整然と配置されていた。
現在の噴水地周辺に本尊薬師如来を奉安する根本中堂、
その後の国立博物館敷地内に本坊があり、
「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していた。
慶応四年上野戦争で、
ことごとく焼失した輪王寺も表門だけ残った。ー後略ー」
東叡山には寛永寺と輪王寺があったと言うことか。
輪王殿を出て、国立博物館前を通り過ぎると、
旧因州池田家江戸屋敷の表門(黒門)がある。
これは元は丸の内の大名小路にあったが明治25年、
芝高輪台の常宮御殿の表門として移築された。
その後、高松宮家に引き継がれて、昭和29年現在地に移築されたもの。
(旧因州池田家屋敷表門(黒門)

黒門とは、その家のご主人が通る門である。
奥方が通る門は、赤門で東大の赤門で代表される。
さらに道路を進んで黒田記念館前の路地を右折し、
道に沿って左の方へ行くと寛永寺の前に出る。
(寛永寺)

正面に寛永寺の根本中堂が見え、左手後方に大きな「施無畏」の石碑が見える。
本来の根本中堂は、上野戦争で焼失してしまったので、
現在の根本中堂は、川越の喜多院から移築したとの事。
根本中堂の正面に扁額が架かっていたが、何と読むのかずいぶん苦しんだが
「瑠璃殿」と読んだ。帰って調べた所やはり瑠璃殿で正しかった。
(根本中堂)

(根本中堂の正面)

(根本中堂「瑠璃殿」の扁額)

(施無畏の石碑)

この石碑の「施無畏(せむい)」も読むのに苦しんだ。
「施無畏」というのは、文字通りに考えれば
「恐れを施さない→危害を加えない」と言う意味だろうか、
観世音菩薩の別名のようだ。
根本中堂の右側に、焼失した前の根本中堂の鬼瓦が残っていたが、
かなり大きく立派なものであった。
その前にお墓が一つあるが、これは優れた陶工「尾形乾山深省蹟」と書かれてある。
尾形乾山の焼き物は、「深省」の落款がある。
(尾形乾山深省碩と供養塔)

(元根本中堂の鬼瓦)

さて、人波に疲れて帰ろうとしたら、のぼり旗
「国立西洋美術館 世界遺産登録へ推薦決定」が春の風に揺れている。
美術館そのものが世界遺産とは考えにくい。
世界遺産に登録推薦されるのは、松方コレクションか、ルノアールの絵画か、
或いはロダンの彫刻群か、美術品が世界遺産?・・・頭をひねってみたが、
つたない頭では解るわけがない。
久しぶりに、西洋美術館の前庭のロダンでも見て帰ることにした。
ここまでは入っても無料で、世界的に有名なロダンの彫刻が見られる。
「弓を引く人」彫刻だけは、エミール・アントワーヌの作であるが、
他はすべて オーギュスト・ロダンの作である。
それではどうぞ!
(国立西洋美術館)

(考える人)

(カレーの市民)

(地獄の門)

(アダム)

(イヴ)

(弓を引く人、これだけエミール アントワーヌの作)

(西洋美術館2)

帰宅後調べた所、国立西洋美術館はフランスを代表する建築家によるもので、
フランスが世界にまたがる建築物群を世界遺産に登録申請していることが分かった。
ロダンのアダムとイヴの像、恥ずかしそうに顔を隠しているように見える。
神は、最初にアダムを造った。
その後イヴを造ったが「禁断の木の実」を食べてからは、
お互い裸であることを恥じることを知った。
このアダムとイヴの像は「禁断の木の実」を食べた後のように思える。
東叡山とは比叡山に対抗して、東の叡山すなわち東叡山として、
上野一帯が東叡山寛永寺であることは前回書いた。
比叡山には中心となる根本中堂があるのに、
東叡山の中心となる建物はあるのだろうかと、訪ねた。
どうしてかと言うと、東叡山は維新前夜の上野戦争でほとんどが灰に化したからだ。
しかし、残っている部分もあるらしい。
国立博物館を右折してすぐ左手に
「東叡山寛永寺 開山堂」がある。
門をくぐると右手に阿弥陀堂があり、鐘楼がある。
正面にあるのが開山堂である。
(東叡山寛永寺 開山堂の門)

(門を入ってすぐ右に阿弥陀堂)

(鐘楼)

(東叡山寛永寺 開山堂)

(手洗場の竜)

開山堂の右手に輪王殿があるが、
輪王殿に行くには小さな木の門をくぐらなければならない。
この門は、明治の文豪幸田露伴旧宅の門で、谷中にあったものを移築したもの。
瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など総て丸太造りで、
明治期のしもた屋(仕舞屋)の風情をとどめている。
露伴の代表作「五重塔」の主人公(のっそり十兵衛)は、
現在の寛永寺根本中堂を手掛けた大工の棟梁をモデルにしたと言われる。
(幸田露伴の腕木門)

(開山堂の右手に輪王殿)

輪王殿の前庭は広くとられていて、行事のある時の駐車場になるのであろうか。
その広場の先、露伴の腕木門の右手に黒塗りの門がある。
門と言っても出入り専用の門ではなく、
国の重要文化財になって展示してある門「寛永寺旧本坊表門」である。
(寛永寺旧本坊表門)

これは、台東区教育委員会の説明によると、
「江戸時代、東叡山には寛永寺の塔堂伽藍が整然と配置されていた。
現在の噴水地周辺に本尊薬師如来を奉安する根本中堂、
その後の国立博物館敷地内に本坊があり、
「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していた。
慶応四年上野戦争で、
ことごとく焼失した輪王寺も表門だけ残った。ー後略ー」
東叡山には寛永寺と輪王寺があったと言うことか。
輪王殿を出て、国立博物館前を通り過ぎると、
旧因州池田家江戸屋敷の表門(黒門)がある。
これは元は丸の内の大名小路にあったが明治25年、
芝高輪台の常宮御殿の表門として移築された。
その後、高松宮家に引き継がれて、昭和29年現在地に移築されたもの。
(旧因州池田家屋敷表門(黒門)

黒門とは、その家のご主人が通る門である。
奥方が通る門は、赤門で東大の赤門で代表される。
さらに道路を進んで黒田記念館前の路地を右折し、
道に沿って左の方へ行くと寛永寺の前に出る。
(寛永寺)

正面に寛永寺の根本中堂が見え、左手後方に大きな「施無畏」の石碑が見える。
本来の根本中堂は、上野戦争で焼失してしまったので、
現在の根本中堂は、川越の喜多院から移築したとの事。
根本中堂の正面に扁額が架かっていたが、何と読むのかずいぶん苦しんだが
「瑠璃殿」と読んだ。帰って調べた所やはり瑠璃殿で正しかった。
(根本中堂)

(根本中堂の正面)

(根本中堂「瑠璃殿」の扁額)

(施無畏の石碑)

この石碑の「施無畏(せむい)」も読むのに苦しんだ。
「施無畏」というのは、文字通りに考えれば
「恐れを施さない→危害を加えない」と言う意味だろうか、
観世音菩薩の別名のようだ。
根本中堂の右側に、焼失した前の根本中堂の鬼瓦が残っていたが、
かなり大きく立派なものであった。
その前にお墓が一つあるが、これは優れた陶工「尾形乾山深省蹟」と書かれてある。
尾形乾山の焼き物は、「深省」の落款がある。
(尾形乾山深省碩と供養塔)

(元根本中堂の鬼瓦)

さて、人波に疲れて帰ろうとしたら、のぼり旗
「国立西洋美術館 世界遺産登録へ推薦決定」が春の風に揺れている。
美術館そのものが世界遺産とは考えにくい。
世界遺産に登録推薦されるのは、松方コレクションか、ルノアールの絵画か、
或いはロダンの彫刻群か、美術品が世界遺産?・・・頭をひねってみたが、
つたない頭では解るわけがない。
久しぶりに、西洋美術館の前庭のロダンでも見て帰ることにした。
ここまでは入っても無料で、世界的に有名なロダンの彫刻が見られる。
「弓を引く人」彫刻だけは、エミール・アントワーヌの作であるが、
他はすべて オーギュスト・ロダンの作である。
それではどうぞ!
(国立西洋美術館)

(考える人)

(カレーの市民)

(地獄の門)

(アダム)

(イヴ)

(弓を引く人、これだけエミール アントワーヌの作)

(西洋美術館2)

帰宅後調べた所、国立西洋美術館はフランスを代表する建築家によるもので、
フランスが世界にまたがる建築物群を世界遺産に登録申請していることが分かった。
ロダンのアダムとイヴの像、恥ずかしそうに顔を隠しているように見える。
神は、最初にアダムを造った。
その後イヴを造ったが「禁断の木の実」を食べてからは、
お互い裸であることを恥じることを知った。
このアダムとイヴの像は「禁断の木の実」を食べた後のように思える。
上野戦争で、ことごとく焼失した、ということは、割と最近まで現存していたんですね。
幸田露伴は、寛永寺とは何かと関係が深いんですね。
「黒門は主人が通る門で、奥方が通る門は赤門」、へ~、そうなんだ!
いや~、勉強になります!
現在は一部しか残ってないんでしたね。
あの大きな鬼瓦と読めない石碑には記憶が残っています。
国立西洋美術館には入館しなかったけどロダン作の考える人とか
カレーの市民の銅像は眺めて通過しましたね。
因州池田家の黒門は次回に訪れたいと考えています確かに藩主が通るのが黒門で
将軍家から嫁に入った奥方さまは赤門を通るとのお話しは何かで読んだように思います。
兄弟だったような?
確かにかなり広いですね。
根本中堂の隣が谷中霊園で、「夕焼けだんだん」も近くにありますね。
ここでは、芸大卒業生の卒業制作の自画像が時々展示されます。
卒業生を見ても、名のある画家は数えるほどで、芸術で身を立てる難しさを感じます。
赤門黒門のことは、鉄ちゃん爺やさんの方が良くご存知と思います。
歴史音痴ですみません。
人が営みを始めてから~
地球上、東アフリカから~人が歩み始めて
中東をも支配のその地区からの異教徒との戦
何故と思われる事が多すぎますね。
中東美術館なら?
十字軍がイスラム教を追い出して、キリスト教が多くなったように思えます。
これからはイスラムが増えて、
キリスト教を凌駕するとか、言われているようですね。
(ボクの死んだ後の話ですが・・・。
人は弱い生き物ですから神様が要るようですが、
人も犬猫と同じようなもの、どの神様でも同じでは・・・)