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楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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間(あい)の宿 (旧中山道の板橋宿を過ぎて雑感3)

2023年01月17日 05時37分34秒 | ひとり歩き旅
清水坂を下りきると、
旧中山道は右に折れる。

(清水坂の終わり)

右折すると、古いが年季の入ったケヤキが、
眼に飛び込んでくる。


(年季のケヤキ)

(年季の入ったケヤキの木)

(幹のねじれ)

幹のねじれ具合から、風雨に耐えたという感じが良く出ている。
このケヤキの木の真向かいに間の宿はありました。
間(あい)の宿場の目印になった木です。
一里塚から、僅か500mほど清水坂を下りきった所右側に、
この間(あい)の宿場はある。


〈間(あい)の宿場跡〉

(間の宿を奥から見ると)

そもそも中山道は
日本橋を出発して最初に板橋宿、次が蕨宿である。
板橋宿から蕨宿までは、およそ10kmあるのに、
どうして板橋宿から2kmくらいの所に、
中間地点を意味する間(あい)の宿があったのだろう。
私たち誰しもが不思議に思います。

ところが江戸時代の人達には決して不思議ではなかったのです。
それは4kmほど先に荒川があり「戸田の渡し」がありました。


(「戸田の渡し場」の浮世絵)

荒川は文字が表すように水流が定まらない荒れた川でした。
川は曲がりくねっていて、増水すると堤防をものともせず、
氾濫しました。
普段は100mほどの川幅も増水し氾濫すると、
川幅が4kmを越していました。
そして水流は、高さ30mある崖にたどり着いたのです。

つまり「間(あい)の宿」があるここまで川は溢れてきたのです。
増水すると、旅人はここで足止めされました。
4kmの渡し船もありましたが、
渡し賃が高く二の足を踏んでいたのです。

この間の宿の茶屋を営んでいた方の家がこの宿の手前にあります


(自動車の入っている家です)

何代目か知りませんが、江戸時代から続く梅田さんです。
ご当主は年配の方でいつも隣の道路を掃除されていました。

(「板橋宿を過ぎて雑感」おわり)



コメント (1)
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