思い立って日比谷公園へ行った。
仕事の都合で東京に住んで、その都合で結婚して、子供が50歳になるのに、
ボクは日比谷公園に行ったことが無い。
地下鉄「日比谷駅」で降り、何番出口か忘れたが、
日比谷公園の交番がある所へ出た。丸の内警察署の交番である。
日比谷公園の入口はここにもある。
ここにもあるとしたのは、日比谷公園入口は他にも沢山あるからだ。
(交番のある日比谷公園入口)
(日比谷公園地図)
日比谷公園の説明では、
《日比谷公園は、幕末までは松平肥後守等の屋敷地で、
明治初期には陸軍練兵場に成って居た所でした。
当初から近代的な「都市公園として計画・設計・造成された本格的な公園であると同時に、
日本初の「洋式庭園」として明治36年(1903)6月1日に開園された。
(面積163.636㎡)―中略―
関東大震災や太平洋戦争により改修等行ってきましたが、
心字池・第一花壇や雲形池周辺は開園当時の面影がそのまま残っています。(後略)》とある。
門を入るとすぐ、「日比谷見附跡」の標柱が立っており、ここが江戸城外郭城門の一つ、
日比谷御門で、石垣の一部が残っており、当時、石垣の西側は濠になっていたが、
公園造成の時、その面影を忍び心字池とした。》と説明がある。
(日比谷見附跡に碑と石垣門跡)
(心字池と残された石垣の図)
(心字池を石垣の上から見る)
(心字池を石垣の上から)
(心字池を石垣の上から2)
(心字池を石垣の上から3)
(心字池を石垣の上から4)
(石垣の下から見る心字池)
(心字池中央にある亀)
心字池を眺めて右側を見ると、
(仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地)の説明板が建っている。
(伊達政宗終焉の地の説明板)幕末までは松平肥後守等の屋敷地
この日比谷公園の一部は、仙台藩伊達政宗の上屋敷、説明の「外桜田上屋敷」があった所とされる。
早い話、日比谷公園一帯は、元仙台藩上屋敷跡だったと言う事である。
いったいどう解釈したらよいのか、歴史に疎いボクには理解できない。
日比谷公園の案内看板には、(幕末までは松平肥後守等の屋敷地)とあったのに、
ここでは仙台藩 伊達家の上屋敷跡だったと記している。
歴史的に時代が違うので両方が正しいのか、ボクには解らない。
どうせ案内を出すのだから、肥後守の前は仙台藩主とでも書いておいてくれれば、
理解できるのだが・・・・。
お役人のやる事、自分の仕事が済めばよいと言うことか、
読む人の事を考えてくれよ、言いたい。
(説明板後方の屋敷跡)
そのまま北へ向かうと、旧日比谷公園管理事務所がある。
東京都教育委員会の説明に依ると、
(この管理事務所は明治43年に出来たもので、
洋式の日比谷公園にふさわしい様に設計されたドイツ・バンガロー風の瀟洒な建物で、
明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして建築史上貴重な物である。)とのこと。
その先左手に第一花壇があり、その東端にペリカンの噴水がある。
そのペリカンがとぼけた顔で水を飛ばした様子が滑稽であった。
(公園管理事務所址)
(第一花壇)
(ペリカンの噴水)
さらに進むと、右手に日比谷公園の桜門があり、
その左手に、日比谷公園開設(明治36年)当時の「水のみ」が置かれている。
(二つ目の門 桜門)
(珍しい鋳鉄製の「水のみ」)
公園開設当時の「水のみ」は鋳鉄製で重厚な中にも細かな装飾が施され、
デザインとしても見応えがあると言う。
また、馬も水が飲めるような形に造られているそうで、
牛馬が陸上交通の重要な部分を担っていたことが解る。
以前、イタリアを旅行した時、同じような「水のみ」があったことを思い出す。
日比谷公園のは水道の蛇口は無いが、イタリアで見た「水のみ」は蛇口があったように思う。
「水のみ」の後ろは山になっているが、これは三笠山と言い日比谷公園造成の折、
池を造った時の土を盛ったものである。
(「水のみ」と三笠山)
(三笠山)
さらに進むと、公園は突き当り東北の出入口がある。
門の外は祝田橋で、ずいぶん昔の話だが、東京はこの祝田橋で、
大阪では道頓堀で、何月何日何時と決めて交通を遮断しようと、
企んだ学生がいたと言う。
小説だったか、本当の事件だったか、解らない記憶がよぎった。
(東北の出入り口)
(祝田橋)
(日比谷公園1の住居表示)
公園の中を西に曲がると、左手に「自由の鐘」が置かれている。
これはアメリカから贈られたものだが、音をよみがえらす為に、
中央大学辞達学会の学生が修復募金委員会を立ち上げ、
永久になり続けることを願い、募金の念願叶い、
寄贈されてより60年ぶり、平成23年に鐘が打ち鳴らされた。
と説明板にある。
ボクの同級生がこの辞達学会OBで、
就職後寄付金を頼まれ弱りきっていたのを思い出す。
中央大学の辞達学会は弁論部で、友人に連れられて中央大学講堂に行ったことがある。
ちょうど社会党の浅沼稲次郎書記長が演説をしている最中であった。
左手をポケットに突っ込み熱弁をふるっていた。
後に暴漢 山口乙矢少年に刺殺されたのが、ここ日比谷公園であった。
(自由の鐘)
(自由の鐘説明板)
脱線してしまった。
さらに進むと、霞が関門に出る。
門を出ないで左に回ると、池がある。
雲形池と言うそうだが、心字池に対抗するもののようだ。
その証拠に、心字池には亀の造形が噴水の所にあったが、
ここでは雲形池の中に鶴が噴水になっている。
この鶴は、寒中に気温が下がって氷が張るころ、
噴水で水を浴びた鶴の身体にツララが出来て、
冬の風物詩としてメディアに好く取り上げられた。
(霞が関の出入り口)
(雲形池の鶴の噴水)
(雲形池の鶴の噴水2)
午後13時頃から日比谷公園を歩いているが、
すでに時間も経ち日も落ちようとしている。
またの機会にもう一度訪ねることにしようと思う。
仕事の都合で東京に住んで、その都合で結婚して、子供が50歳になるのに、
ボクは日比谷公園に行ったことが無い。
地下鉄「日比谷駅」で降り、何番出口か忘れたが、
日比谷公園の交番がある所へ出た。丸の内警察署の交番である。
日比谷公園の入口はここにもある。
ここにもあるとしたのは、日比谷公園入口は他にも沢山あるからだ。
(交番のある日比谷公園入口)
(日比谷公園地図)
日比谷公園の説明では、
《日比谷公園は、幕末までは松平肥後守等の屋敷地で、
明治初期には陸軍練兵場に成って居た所でした。
当初から近代的な「都市公園として計画・設計・造成された本格的な公園であると同時に、
日本初の「洋式庭園」として明治36年(1903)6月1日に開園された。
(面積163.636㎡)―中略―
関東大震災や太平洋戦争により改修等行ってきましたが、
心字池・第一花壇や雲形池周辺は開園当時の面影がそのまま残っています。(後略)》とある。
門を入るとすぐ、「日比谷見附跡」の標柱が立っており、ここが江戸城外郭城門の一つ、
日比谷御門で、石垣の一部が残っており、当時、石垣の西側は濠になっていたが、
公園造成の時、その面影を忍び心字池とした。》と説明がある。
(日比谷見附跡に碑と石垣門跡)
(心字池と残された石垣の図)
(心字池を石垣の上から見る)
(心字池を石垣の上から)
(心字池を石垣の上から2)
(心字池を石垣の上から3)
(心字池を石垣の上から4)
(石垣の下から見る心字池)
(心字池中央にある亀)
心字池を眺めて右側を見ると、
(仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地)の説明板が建っている。
(伊達政宗終焉の地の説明板)幕末までは松平肥後守等の屋敷地
この日比谷公園の一部は、仙台藩伊達政宗の上屋敷、説明の「外桜田上屋敷」があった所とされる。
早い話、日比谷公園一帯は、元仙台藩上屋敷跡だったと言う事である。
いったいどう解釈したらよいのか、歴史に疎いボクには理解できない。
日比谷公園の案内看板には、(幕末までは松平肥後守等の屋敷地)とあったのに、
ここでは仙台藩 伊達家の上屋敷跡だったと記している。
歴史的に時代が違うので両方が正しいのか、ボクには解らない。
どうせ案内を出すのだから、肥後守の前は仙台藩主とでも書いておいてくれれば、
理解できるのだが・・・・。
お役人のやる事、自分の仕事が済めばよいと言うことか、
読む人の事を考えてくれよ、言いたい。
(説明板後方の屋敷跡)
そのまま北へ向かうと、旧日比谷公園管理事務所がある。
東京都教育委員会の説明に依ると、
(この管理事務所は明治43年に出来たもので、
洋式の日比谷公園にふさわしい様に設計されたドイツ・バンガロー風の瀟洒な建物で、
明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして建築史上貴重な物である。)とのこと。
その先左手に第一花壇があり、その東端にペリカンの噴水がある。
そのペリカンがとぼけた顔で水を飛ばした様子が滑稽であった。
(公園管理事務所址)
(第一花壇)
(ペリカンの噴水)
さらに進むと、右手に日比谷公園の桜門があり、
その左手に、日比谷公園開設(明治36年)当時の「水のみ」が置かれている。
(二つ目の門 桜門)
(珍しい鋳鉄製の「水のみ」)
公園開設当時の「水のみ」は鋳鉄製で重厚な中にも細かな装飾が施され、
デザインとしても見応えがあると言う。
また、馬も水が飲めるような形に造られているそうで、
牛馬が陸上交通の重要な部分を担っていたことが解る。
以前、イタリアを旅行した時、同じような「水のみ」があったことを思い出す。
日比谷公園のは水道の蛇口は無いが、イタリアで見た「水のみ」は蛇口があったように思う。
「水のみ」の後ろは山になっているが、これは三笠山と言い日比谷公園造成の折、
池を造った時の土を盛ったものである。
(「水のみ」と三笠山)
(三笠山)
さらに進むと、公園は突き当り東北の出入口がある。
門の外は祝田橋で、ずいぶん昔の話だが、東京はこの祝田橋で、
大阪では道頓堀で、何月何日何時と決めて交通を遮断しようと、
企んだ学生がいたと言う。
小説だったか、本当の事件だったか、解らない記憶がよぎった。
(東北の出入り口)
(祝田橋)
(日比谷公園1の住居表示)
公園の中を西に曲がると、左手に「自由の鐘」が置かれている。
これはアメリカから贈られたものだが、音をよみがえらす為に、
中央大学辞達学会の学生が修復募金委員会を立ち上げ、
永久になり続けることを願い、募金の念願叶い、
寄贈されてより60年ぶり、平成23年に鐘が打ち鳴らされた。
と説明板にある。
ボクの同級生がこの辞達学会OBで、
就職後寄付金を頼まれ弱りきっていたのを思い出す。
中央大学の辞達学会は弁論部で、友人に連れられて中央大学講堂に行ったことがある。
ちょうど社会党の浅沼稲次郎書記長が演説をしている最中であった。
左手をポケットに突っ込み熱弁をふるっていた。
後に暴漢 山口乙矢少年に刺殺されたのが、ここ日比谷公園であった。
(自由の鐘)
(自由の鐘説明板)
脱線してしまった。
さらに進むと、霞が関門に出る。
門を出ないで左に回ると、池がある。
雲形池と言うそうだが、心字池に対抗するもののようだ。
その証拠に、心字池には亀の造形が噴水の所にあったが、
ここでは雲形池の中に鶴が噴水になっている。
この鶴は、寒中に気温が下がって氷が張るころ、
噴水で水を浴びた鶴の身体にツララが出来て、
冬の風物詩としてメディアに好く取り上げられた。
(霞が関の出入り口)
(雲形池の鶴の噴水)
(雲形池の鶴の噴水2)
午後13時頃から日比谷公園を歩いているが、
すでに時間も経ち日も落ちようとしている。
またの機会にもう一度訪ねることにしようと思う。