(医王寺門前料金所入口)
(奥の細道【十三】医王寺と飯坂温泉2)
信夫文知摺り石を観た芭蕉と曽良は、医王寺に向かっている。
以前書いたかもしれないが、芭蕉は悲劇の英雄 義経に傾倒しており、
また、歌をよくする西行法師、能因法師を慕って旅を続けている。
医王寺へは、福島駅より福島交通飯坂線の医王寺前駅で下車する、
次の駅が終点 飯坂温泉駅である。
芭蕉の時代には、田畑の真ん中にあった医王寺であるが、
今は、住宅に囲まれた中にある。
駅前の案内に沿って住宅の中を進むと、医王寺門前に出る。
医王蜜寺の石碑の手前右手には駐車場もある。
料金所があり、その右横に門がある。料金を払うと、
受付の方が、
(本堂へも入っていただいて結構です。
宝物館にも入っていただき、写真も撮ってかまいません。)という。
普通、日本では、写真はどこも撮影禁止になっているが、
ヨーロッパでは美術館であろうと、博物館であろうとフラッシュさえ使わなければ、
自由に写真を撮って良い。
フランスのルーブル美術館、有名なモナリザの前で写真を撮っても叱られないし、
ましてカメラを取り上げられることはない。
日本では写真を撮ってもよいというのは何とも珍しい。
(医王寺入り口)
(薬師堂までの長い土塀)
奥に、薬師堂がある。
この薬師堂の裏側と右手にあるお墓が、庄司 佐藤基治夫妻と
その子供、継信、忠信兄弟の墓である。
(薬師堂)
曽良の旅日記によると、
(佐藤庄司ノ寺有。寺の門へ入らず。西の方へ行く。堂あり。
堂の後ろの方に庄司夫婦の石塔有。
堂の北の脇に兄弟の石塔有。-中略―
寺には判官どの笈・弁慶書きし経などある由・・・)とある。
堂の後ろの方に庄司夫婦の石塔有。
堂の北の脇に兄弟の石塔有。-中略―
寺には判官どの笈・弁慶書きし経などある由・・・)とある。
ここで「堂あり。」と言うのは薬師堂の事である。
気になったのが、「判官どの笈」である。
義経が背負った笈などあるわけがないとボクは思った。
弁慶など家来を沢山随えていたのだから、
義経が持つ分は家来の誰かが持つのが普通で、
背負い物など初めからあるはずがない、と思った。
しかし、考えてみると、芝居の「勧進帳」にあるように、
石川県小松市に富樫氏が設けたと言われる「安宅の関」では、
義経に似ていると言うことで、疑いをかけられ、
弁慶が義経を打擲するシーンは、まさか家来が主人を打擲することはあるまいと、
疑いが説かれた話は有名で歌舞伎にもなっている。
この時義経は山伏に変装していて、
義経が背負った笈はあるかもしれない、と言う疑問もある。
従って、笈は義経のものかも知れず、弁慶のものでないとも考えられる。
だから、曾良がいう「判官どの笈」が正しいのかもしれない。
一方で芭蕉の「おくのほそ道」の本文には、
(かたわらの古寺に一家の石碑を残す。
中にも二人の嫁がしるし、まず哀れなり。
女なれどもかいがいしき名の世に聞こえつる物かなと袂をぬらしぬ。
堕涙の石碑も遠きにあらず、寺に入りて茶を乞えば、
ここに義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。
・笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟(かみのぼり)
五月朔日の事なり。)とある。
中にも二人の嫁がしるし、まず哀れなり。
女なれどもかいがいしき名の世に聞こえつる物かなと袂をぬらしぬ。
堕涙の石碑も遠きにあらず、寺に入りて茶を乞えば、
ここに義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。
・笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟(かみのぼり)
五月朔日の事なり。)とある。
ここでは笈は「弁慶の笈」とはっきりしているが、
「二人の嫁がしるし」という、継信・忠信の嫁の墓はここには無いし、
兄弟の母を慰めんとした嫁たちの、
甲斐甲斐しき武将姿も、芭蕉の時代には、この寺にはなかった。
など考えると、どうもちぐはぐで、芭蕉の記述も信用しきれない。
どの表現が正しかろうと、文学作品として考えれば、
「判官どの笈」であろうが、「弁慶の笈」であろうが、
どちらでも良いのではなかろうか。
話は戻って、芭蕉の時代(元禄二年(1689)から、
300年以上も変わらず残っている医王寺の薬師堂と、
庄司佐藤基治夫妻の石塔、息子の継治・忠信兄弟の石塔などを見ると、
芭蕉でなくとも感動する。
途中、継信・忠信兄弟の石像が義経を挟んで建っているが、
これはつい最近になってできたものと思われ、余りいただけない。
(庄司佐藤基治夫妻の石塔)
(庄司佐藤基治夫妻の法号)
(佐藤継信・忠信兄弟の石塔)
(佐藤継信・忠信兄弟の法号)
(佐藤継信・忠信兄弟と中央が義経石像)
もと来た道を戻ると右手に宝物館がある。
曽良が書き記した「判官どの笈」は、
芭蕉も弁慶が笈と言っているから、本当は弁慶の笈の間違いではないだろうか。
そんな疑問を持ちながら宝物館にはいってみると、
確かに展示してある「笈」は、「弁慶の笈」として展示してある。
他に芭蕉像や与謝蕪村の「奥の細道画巻」がある。
絵巻にある武者絵の右横に、
・笈も太刀も 五月に飾れ 帋幟(かみのぼり)
とあるのが見える。
太刀は第二次大戦前の金属供出で軍部に提出したままになっているという。
どこかで弾丸の一部にでもなったのであろうか。
(宝物館瑠璃光殿)
(宝物館の弁慶の笈)
(宝物館の芭蕉像)
(宝物館の蕪村の画巻)
宝物館を出ると本堂が見え、本堂に向かう山門を入る。
本堂に向かって左のほうに芭蕉句碑がある。
有名な義経の太刀・.弁慶の笈に関わる俳句である。
・笈も太刀も さつきにかざれ 紙のぼり はせを翁
その右側に一回り小さい芭蕉句碑が同じ句を刻んでいるが、
その下部に、この句碑は芭蕉翁没後106年に建立したとある。
(本堂、この左手に芭蕉句碑がある)
(芭蕉句碑)
(没後106年にできた芭蕉句碑)
本堂前で賽銭を入れようとすると、靴を脱いでお上がり下さいとある。
入場する時、聞いた、
「本堂に入っていただいて、結構です。写真もかまいません」を思い出した。
恐る恐る扉を開き、中へ入ると、右手に佐藤一族の位牌とそれを挟むように、
左右に人形があり、右に継信の妻 若櫻と左に忠信の妻 楓が、
それぞれの夫の武将の装いをして立っている。
残念ながら暗くて写真に撮ることはできなかった。
2人の嫁が夫の鎧を着て、あっぱれ武将の姿を老母の前に見せたと
「おくのほそ道」にあるのに、
その姿はこの医王寺にはなく、
宮城県白石市の田村神社にある甲冑堂の中にあり、
話のつじつまが合わないと、
昭和37年になって医王寺にも、二人の嫁の武者人形を作ったらしい。
(少し分かり難いが医王寺のパンフレットから)
(二人の妻の武者姿の人形をご覧ください)
医王寺を出て、福島交通の終点飯坂温泉駅まで進み、
芭蕉が訪れたゆかりの場所の前にあると言われる温泉旅館もなくなり、
工事中で看板だけが淋しく残っている。
案内に沿って、右側の道路を行くと、すぐ長い下りの階段があって、
川底に到着するかと思えるような階段の先に芭蕉ゆかりの地の碑がある。
(残っている芭蕉ゆかりの地の案内)
(川底までの長い階段)
(川底までの長い階段)
(川底にあるゆかりの地の碑)
飯坂温泉の駅前には、芭蕉の旅姿像がお客様を出迎えている。
(駅前の芭蕉像)
(福島交通 飯坂温泉駅)
・嘆く老母(はは)嫁が五月の 武者姿 hide-san