楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

大奥お年寄り「瀧山」(中山道番外記 25)

2009年02月08日 09時07分00秒 | つれづれなるままに考えること
写真付をご覧になる方は、下記URLをクリックしてお進みください。
URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2009/02/post_0574.html

先日江戸東京博物館で開催された「珠玉の輿」展覧会では、
篤姫のお駕籠、本寿院のお駕籠が並んで置いてあった。
外側はもちろんの事,駕籠の内部も豪華絢爛とはこれを言うと内心思った。

その時、江戸城明け渡しに先立ち、
お暇を頂戴した篤姫付の大奥老女「瀧山」を思い出した。
「瀧山」は彼女付の侍女の実家に寄宿し、晩年を過ごしたと言う話を娘から聞いた。
どうして娘が知っているのかと不思議に思ったが、
娘の住まいの近くに「瀧山」のお墓があるお寺が在るからだという。

どこかと詳しく問いただすと、
何のことはないボク自身も普段良く通る場所にあったのである。
灯台下暗しとはこのこと、早速その寺院に出かけてみた。

寺院の名は「錫杖寺」といい、立派な門構えのお寺で、
埼玉新聞社刊「埼玉県宗教名鑑」によれば、
「養老元年(717)に行基が本堂を建立、
自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられます。
のち、北条時宗の帰依を受けた鎌倉長楽寺開創の願行上人が再興、
寛政元年(1460)には、室町幕府8代将軍足利義政により七堂伽藍が整備され、
中興の祖宥鎮和尚を晋住させました。以降、醍醐三法院直末関東七ヶ寺の一つ、
十一談林所の一つとして末寺53ヶ寺を有する名刹として栄えました。
元和8年(1622)には江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の日光参社の際の休憩所になり、
以降歴代将軍により利用されました。
また3代将軍家光からは金子、材木を拝領し、御成門を建立すると共に、
御朱印20石賜るなど、“川口宿”の中核寺院として繁栄しました。」とある。

山門をくぐると正面に立派な本堂が見え、葵の紋が屋根に見える。
参道左側に七福神の福禄寿尊のお堂があり、すぐ先に鐘楼がある。
その梵鐘は埼玉県有形文化財に指定されている。
材料は銅で、制作年代は寛永18年(1641)川口宿名主である
宇田川氏が先祖供養の施主として鋳造し奉納したもの。

さらに参道を進み、正面にある本堂の横にある墓地を覗くと、
通路に「大奥御年寄瀧山の墓地」と書いて右へ矢印が書いてある看板が見えた。

看板に沿って歩くと、もう一つ案内看板があって、
その案内に導かれて進むと目当ての墓地が遭った。
お参りに来る方があると見えて墓前には、
真新しいお花が綺麗に活けてあった。

卒塔婆の裏面には、
(東京府士族 東京南伊賀町住 大岡権左衛門長女 
徳川家大奥老女俗名瀧山の墓)と刻まれている。

正面にある戒名は、
「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」  とある。

錫杖寺の由緒に、「末寺53ヶ寺を有する名刹」とあります。
浮間の末寺・観音寺→万蔵院(赤羽北)とつながり、
赤羽の末寺・真頂院→真頂院の僧運珍が小豆沢に隠居寺に建てた
東光院(現龍福寺)があります。」とある。

小豆沢の龍福寺は、
「板橋区でも古い「板碑」があることで有名で、薬王山東光院竜福寺という。
本寺は室町時代末に袋村(現在の北区岩淵町)の真頂院の僧運珍が、
隠居寺として創建したのに始まると言われています。――後略」とある。
(板橋区教育委員会)

「錫杖寺」の由来にもあるように、
「龍福寺」が「錫杖寺」の末寺であったことは確かなようだ。

龍福寺の門前にあるしだれ桜が春になると美しい。
その時期には是非お立ち寄りいただきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!