楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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     ・おくのほそ道を歩く

採荼庵(さいとあん)(芭蕉の道を歩く 7)

2009年02月27日 13時31分00秒 | 芭蕉の旅
(採荼庵跡)
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(採荼庵(さいとあん)

「奥の細道」に、
「住める方は人に譲り、
杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ=別荘のこと)に移るに・・・」とあるように、
芭蕉は杉山杉風の別荘 採荼庵(さいとあん)に移り、元禄二年旅に出た。

その採荼庵を見てみたくなり、都営大江戸線に乗り清澄白川駅で降りる。
A-3出口に出ると、目の前が清澄通りで左方向に進む。
右側にある清澄庭園が終わったところに仙台堀川があって,
(うみべばし)という橋が架かっている。

(仙台掘川のうみべ橋)
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橋の向こう側にその採荼庵はあった。
採荼庵跡の石碑があり、庵(いおり)に似せた建物は、
閉められたガラス戸の前に濡れ縁があって、
今にも旅立ちをするという格好で芭蕉像が腰を下ろしている。
なるほど、この旅立ちの姿がないと、
芭蕉ファンはここに寄ってくれないだろうとの自治体教育委員会のは考えたに違いない。
この像があるばかりに芭蕉崇拝者がのこのこやって来て、
お腹を空かせて近所のお蕎麦屋さんや、
ラーメン屋さんに寄ってくれるだろうし、
のどが渇けば美味しい和菓子に日本茶のお店も繁盛する。
しかし、この採荼庵のガラス戸は昔は明かり障子であったに違いない。
明かり障子をすーっと開けてみると、
奥に畳が六枚くらいあると普通なら想像するが、
どっこい自治体に予算がなかったのか、
戸を開けると、
いえいえ開けてはならない、
向こう側には何もないからだ。

つまり、映画のセットよろしく、裏側には何もなく、
ただ枯れ草だけが生えていると言うだけの、
わびさび?の世界である。

う~ん、本当は「夏草や・・・」であるが、
この名句転じて

・枯れ草や つわものどもが 夢のあと

が正解のようだ。

この際つわものとは、この採荼庵を造成した自治体をさす。

さて芭蕉が出立に当たっては、
小名木川を舟で出て、

「むつまじきかぎりは宵よりつどいて、舟に乗りて送る。
千住と云う所にて舟をあがれば、
前途三千里の思い胸にふさがりて、・・・」と

「奥の細道」にあるように、隅田川をさか上り、
千じゅ大橋の北側(今は千住橋戸町)あたりに降り立ったものと考えられている。

別の説では、橋の向こう側に上陸したとの意見もあり、
学術的には一大論争であろうが、
昔のことは定かではないくらいで、ボクには丁度よい。

(橋戸河岸)
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それでも、北側が有力であるらしく、
橋の袂には「千じゅ云うところにて・・・」との文章と一緒に、
芭蕉が曾良との旅立ちの図が描かれている。
さらに広重と北斎の千住の絵が描かれ、芭蕉の当時を偲ばせてくれる。

(芭蕉と曾良の図)
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江戸時代の大橋は木製で太鼓橋であったようだ。
広重描く千住大橋は下部が南、
上の部分が千住橋戸町の河岸が描かれている。
川面には奥の船や筏が見える。また、
葛飾北斎の浮世絵には、江戸の名所であった千住から荷を背負った馬と人が、
富士を眺めている図が壁に描かれている。

(広重の千住大橋)
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(北斎の浮世絵、富岳36景「千住」)
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旧日光道中を進むと、筆を持った芭蕉像があり、
大きく「奥の細道」の看板が掲げてある。

道しるべには「日光道中 千住宿、右 日本橋、左 草加」とある。
まだ目新しい石碑である。

(芭蕉翁の旅立ち像)
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(奥の細道)
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(日光道中の石柱)
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つたないボクの一句

・寒空に 行き先しめす 石しるべ       hidebach

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