それゆけ!ぶんぶん一家☆ミ

不器用な3人家族と、ゆかいな仲間たちのブログです。

とんでもない古墳時代の歴史があるけど抜けるんだ☆産湯稲荷神社☆大阪市天王寺区♪

2021-05-13 04:55:50 | おでかけ

この日、4月24日は徒歩にて、真田幸村ゆかりの地巡り。

地図なんて見てみたら、サクッと到着するはずなのに、迷って悩んで歩き回り。

なんせ、1本道で迷子になるっていう、どうしようも無い方向音痴なのだから。

この日の予定、最後はここだ。有った!って時は、喜び一入で叫びそうになったもん。

正面の鳥居から、深々と礼をして入りましたら、こんな碑が。

『桃山跡』この産湯稲荷のあたりの丘陵は、桃山と呼ばれ、明治のころまで

広大な桃の木が有って、大正8年(1919年、お、ベルサイユ条約の年だ)に

埋め立てられた味原池とともに景勝の地として知られていたそうな。

『比賣許曽神社』比賣許曽神社は、当地にあり、織田信長が天成4年(1576年)

石山本願寺との戦いで兵火にかかり、東成区東小橋に遷って、こちらは摂社となりました。

手水舎(だと思う)が、芸術作品のように美しい。

これは、自然にこうなったのか、敢えてデザインされたものなのか。

上から撮影したら、もっと素敵ですから、映えるっての狙いならそこがおススメ。

この時は、全体が分かるようにと、9枚撮った中でこの写真にしときましたさ。

さあ、本殿はこちらですね。

御祭神は 宇賀之御魂神、下照姫命、大小橋命。トリプルキャストよ。

宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)全国各地のお稲荷さんの御祭神代表。知らんけど。

五穀豊穣の神様で、日本書紀にも出てくる女神様さ。

下照姫命(したてるひめのみこと)は神道の容姿美麗な女神様。大国主命の娘。

そして、大小橋命(おおおばせのみこと)。成務天皇(第13代、古墳時代)の頃に生まれたと。

中臣氏の祖ともされてるけど、大小橋命が誕生の時にここの清水を汲んで産湯としたことから、

『産湯の玉之井』と言われ、当時はどひゃどひゃ清水が湧き出し、人々の飲料水として大活躍。

今は手押しのポンプが付いてて押してみたら、ちょろちょろっと出てきたさ。

見える?何回も、えいや!えいや!ってポンプを動かして、大急ぎでシャッターを押した、

苦心の写真が下のもの。ちょろろと出てるでしょ。ふふふ。

ただ、飲んじゃいけないらしいので、良い子の皆は気を付けろ。

木の説明書きが有ったので、そのまま書き写しましたのこ。自信はないけどネットで調べつつこんな感じ。

「大小橋命は天児屋根命12世後胤にし、

 人皇13代の御代に味原郷に誕生し給ふ。

 其の所を字掃部屋敷とも藤原殿とも云ふ。

 此時に玉ノ井を汲みて産湯に用たれば此処を産湯と云ふ。

 御父は中臣の臣・雷大臣御母は紀氏清夫と申す。

 三男子あり。長男は大小橋命なり、又御味宿禰とも小橋宿禰とも申す。

 二男は意穂命と申し三男は阿遅速雄命と申す。

 神代の時に、大国主命の御子なる味耜高彦根命天降り給ひし霊地なれば、

 此処味原とも小橋とも云ふ」

まぁ、そういう事らしい。

そして、柱に紙が貼ってあって、手書きで何か書いてあるの、???ってなってた。

  左:大己貴神・少彦名神(医療の神・温泉の神)

  中:彌都波能売神(水の神)・御井神(井戸の神)

  右:祓戸神(祓いの神)・味耜高彦根神(日高真名井始めの神)

暫く、なんのことだか分からなくって、あわあわなってたら見つけた。

この井戸の上、屋根(?)の鴨居の所に、小さな箱のような祠が有った。

ああ、この中に、神様がいっぱいいらっしゃる模様。

そうそう、この日のテーマを思い出しましょう。真田幸村ゆかりの地巡り。

ここの井戸、三光神社に有った真田の抜け穴。

それとは別で、この井戸もなんと・・・抜け穴だったとか!

マジか!?だって、まだ生きてる井戸。泳いでいくのか?ま、小さい事は気にしない。

抜け穴だったって事にした方が、夢やらロマンやらが有って良いような。

日本の神様のお話も、昨夜、これを書くにあたり調べたりしていたら、

色んな所で繋がりがあったり、ああ、あなた方は親戚?ってなったり不仲なの?とか。

調べ出したら、あっちもこっちも画面を広げまくって埒があかない。面白過ぎる。

今日の人間関係の憂鬱や鬱屈は、今に始まった事でなく神話になる頃からの悪い癖。

なので皆さま、小さいことは気にしないでおきましょう。

そんなこんなで、楽しませてもらいましたとさ。ありがとうございました。

産湯稲荷神社

大阪市天王寺区小橋町3-1

 

 



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