ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

田中正造翁 没百年記念行事

2013-10-08 07:36:48 | 地域活動・つながり
足尾銅山鉱毒事件の解決のため、命がけで奔走した佐野市出身の義人 「田
中正造」が、1913年9月に亡くなってから 今年で100年目を迎えている。
記念すべき年にあたり、渡良瀬川流域の各地で記念行事が開催されている。
ひげ爺が住む 加須市の北川辺でも、記念事業や式典が執り行われている。
その中心的行事が10月4日、分骨墓祠前と北川辺西小学校で開催された。
一つは霊祠の改築と記念碑の建立を披露、合わせて101 回忌法要である。
もう一つは、小学生の参加や翁と地域を語る講演等による記念式典である。

田中翁と北川辺の関わりは、 足尾の鉱毒による農業被害に 立ち上がっただ
けでなく、政府による地域の買収と遊水地化政策に反対する戦いであった。
翁と先人達は、国の政策に反対し撤回させて北川辺の地を守ったのである。
それらは日本の公害闘争の原点であり、唯一の勝利闘争と評価されている。
一方で谷中村は、地域の事情や政府の強硬対応等で廃村・遊水地化された。
そこには、鉱山利益を持つと栃木県と持たない埼玉県、被害に地域差のある
広範囲性と同一被害の限定地域性、渡良瀬流路と利根川流路などがあった。

正造翁の活動中で、最も重要な明治35年の記録が殆ど残っていないという。
翁の直訴が34年12月で、遊水地化の発覚と相愛会結成が35年1月 利根川の
決壊が9月で村民大会が10月、県の遊水地化断念が12月と言う一年である。
講演者日経新聞社元専務の山岸一平氏によると、膨大な文書を残した 正造
翁の日記(書きとめ・メモ)も、その一年分だけが全く残されていないという。
『何かの事情があって、すべてを廃棄してしまったのだ 』 と、ひげ爺の独り言。
翁の日記一年分は惜しまれるが、私のブログは 何年分あっても価値はない。
コメント
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