熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言と落語の「宗論」

2014年08月30日 | 能・狂言
   毎年8月末に、国立能楽堂で、納涼の意味を込めてか、「狂言と落語・講談」の夜が演じられる。
   まず最初は、神田松鯉の講談「扇の的」那須与一の話であるが、平家物語よりも源平盛衰記によるとか、日頃聞く話よりも微に入り細に入って面白い。
   私など与一より扇を構えて差し招く平家美人の方に興味があるのだが、平家物語では、
   ”小舟には若くてあでやかな女房が、柳の五つ衣に紅の袴の出立ちで、・・・裏が青柳の色をした襲、くれないの袴は、白い肌をさらに白く見せて男の目を幻惑する”と、松鯉は、好色な義経をおびき出さんとの平家の魂胆を、そして、女房が如何に美人で魅力的であったかを熱を込めて語る。

   さて、今回の趣向で面白いのは、狂言と落語で取り上げられた同じテーマの「宗論」で、宗派・宗旨の違った者どうしの宗教問答で、笑いを誘う公演企画。
   落語の「宗論」は、人間国宝になった小三治に代わって新しく落語協会会長になった柳亭市場の名調子で、商家の親旦那が、家の宗教浄土真宗に目もくれずに、キリスト教に入れ込む若旦那に説教する頓珍漢を語って爆笑させる。
   
   師匠小さんの芸を踏襲しているのであろう、語り口も小三治と殆ど同じで、すべて、世の中のものには陰陽があり、男と女、宗旨にも陰陽があって、「南無阿弥陀仏」は陰で、「南無妙法蓮華経」は陽であると語り始めたのだが、相撲が好きだと言って、呼び出しや相撲甚句を、実に美声で本職よりも名調子と思える芸で披露したり、面白いまくらの方が30分くらいと長くて、肝心の本編の方は、10分と少しで終わると言う珍しい熱演。

   私は、昔ラジオで聞いて覚えていたのは、
   息子が「わが造り主のイエスキリスト。」と言うくだりで、旦那が、「お前を作ったのは、あたしと死んだ婆さんの二人だ。誰にも手伝わした覚えはない」と言うと、息子は「肉体を作ったのは両親ですが、知力、精神、魂をお作りになったのはキリストです。」と反論。旦那も「それならお前は、あたしと、婆さんと、キリストが三角関係だったというのか。」と反論すると言う、落差の激しい頓珍漢な珍問答。
   讃美歌まで歌いだす始末で、外人牧師風に声音を替えて語る市場の語り口の上手さ巧みさ、とにかく、落語になれば、教義の優劣を論じる宗論ではなくて表出するのは人間の愚かさ悲しさ、実に面白い。

   落語では、「神仏論」と言うのがあって、骨董屋を営む夫婦の噺で、かみさんが一向宗で、亭主が神道の狂信的な信者。
   ノミを殺す殺さないで夫婦喧嘩、生き物の命を取るのは、殺生戒を破るからダメだと言う亭主に、盗みなら、あなたの方がよっぽど悪い、女中のお初の所に夜這いに行った豆泥棒ではないか、と言った下世話な話が飛び出す面白い話。庶民の会話は、意表をついて、とにかく、笑わせる。

   日頃、何となく、かたくて幽玄な能を鑑賞している能楽堂の客のくぐもった笑いと反応が、同じ柳亭市場の語りでありながら、演芸場のあっけらかんとした客の爆笑とは、微妙に違っていて、私には、その差が非常に興味深かった。

   さて、市場は、落語では、非常に繊細で微妙な問題を含んでいるので、宗教に関する話題は避けているのだと言っていたのだが、やはり、ことの始まりは、狂言の「宗論」であろう。
   歌舞伎でも、「連獅子」の後半部分に、この狂言が脚色されて挿入されていて、法華宗の僧・蓮念と浄土宗の僧・遍念が登場して、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」との珍妙な宗論が展開されていて面白い。

   狂言の「宗論」は、シテ/浄土僧は山本東次郎、アド/法華僧は茂山七五三、アド/亭主は山本則俊で、冒頭5分の囃子の楽が奏されて、一時間にも及ぶ大作であり、あらすじは、次の通り。
   身延山に参詣した本国寺の法華僧が、京都への帰途、信濃の善光寺に参拝した帰りの黒谷の浄土僧と道連れになる。互いに犬猿の仲の宗派とわかり、法華僧は別れたがるが、浄土僧は離れない。2人は互いの相手の宗派を嫌い、数珠を相手の頭上にかざし合う。法華僧が、別れたくて宿に逃げ込むのだが、浄土僧も追って入り空き部屋がないので同室し、一晩中宗論(宗派間の優劣論争)をして負けた方が宗旨替えすることにし、法華僧は「五十展転随喜の功徳」、浄土僧は「一念弥陀仏則滅無量罪」と、二人共、でたらめな解釈の話に仕立てて捲し立てる。論争は勝負がつかず、2人とも寝込む。翌朝、二人は、競って読経と勤行を始めるのだが、浄土僧は「踊り念仏」を、法華僧は「踊り題目」を始めて廻り出して、調子に乗って浮れている間に、2人はうっかり、それぞれ相手の文句を唱えていることに気付いて絶句。遂に、「法華も弥陀も隔てはあらじ」と悟って仲直りする。

   最後には、浄土僧「げに今思ひ出だしたり、昔在霊山名法華、法華僧「今在西方名阿弥陀、浄土僧「娑婆示現観世音、法華僧「三世利益、浄土僧「三世利益
  両者「一体と、この文を聞くときは、この文を聞くときは、法華も弥陀もへだてはあらじ、今より後はふたりが名を、今より後はふたりが名を、「妙阿弥陀仏」とぞ申しける。と、ハッピーエンドで終わる。

   聞くところによると、当時は、両宗派とも新興で、両派間の競争が激しく、京都で勢力を持っていた法華宗は、都会的ではあるが、計算高くて強情で頑固、浄土宗の方は地方に深く根を下ろしていたので、朴訥だが田舎臭い、と言うことで、
   この狂言でも、浄土僧は、厚かましくて相手をからかおうとする余裕のある態度を示し、法華僧は、一途さに徹して、無意味な争いごとは避けたいと逃げまわる。
   丁度、アクティブな東次郎の浄土僧と、京都のスリムでインテリ風の七五三の対比が面白く、東次郎に数珠を頂かせられて防いだ笠を、数珠で擦って必死になって拭い清める七五三の仕草の面白さなどは、格別である。

   室町後期には、法華と浄土との優劣を争う論争は、激しかったようで、信長が臨席した安土宗論は有名である。
   現実はともかく、庶民には、良く分からなかったのであろう、この狂言のように、蒟蒻問答と言うか、意味不明の宗論を戦わせて、結局は、浄土僧と法華僧の対立もどちらも同じと締め括って、宗教争いの愚かさを笑い飛ばすと言う面白さ。
   柳亭市場の言うような心配は、古典芸能の世界では、あまりなく、まして,熊さん・八っつぁん の世界では、心配ご無用と言うところであろうか。
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