熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・復曲再演の会:狂言「蜂」・能「吉野琴」

2019年12月27日 | 能・狂言
   国立能楽堂の企画公演◎復曲再演の会のプログラムは、
   復曲狂言 蜂 (はち) 野村又三郎 
   復曲能  吉野琴(よしのごと) 片山九郎右衛門  

   狂言「蜂」は、一人狂言。
   現行曲では、ないが、番外曲では、2~3あるようで、以前に野村萬が、一人で演じた狂言「見物左衛門」を観たことがある。
   見物左衛門が、地主 の桜や西山の桜を見て回る様子を,小謡,小歌,小舞などを交えて演じる曲で、萬の至芸を楽しませてもらった。
   この狂言「蜂」も、シテの喜楽斎が、清水の桜見物に出かけて、満開の桜に浮かれて舞い遊ぶ人々を観ようと木に上って落ちたり、出会う人々に酒をふるまって自分も酔いつぶれて、寝ていると蜂に襲われて逃げ回る話である。
   後見の蜂の羽音の「ブーン」という擬音が秀逸で、シテ又三郎のとぼけた調子のほのぼのとした芸が楽しい。
  
   関東に移り住んで久しいが、やはり、桜は、関西で、この清水の桜もよく見に行った。
   大学から近かったので、銀閣寺から北に上がれば詩仙堂、南に下れば哲学の道から永観堂や丸山公園を皮切りに、大原三千院から寂光院、貴船から鞍馬山、嵐山から嵯峨野を経て仁和寺や竜安寺、醍醐から宇治、高尾の神護寺や三尾、鄙びた古寺や隠れ里・・・暇に任せて、桜やモミジの名所と言われるところを歩き続けていたので、能や狂言で、桜の舞台が出てくるとイメージが湧いてくる。

   奈良の桜やモミジの美しさ素晴らしさも脳裏に焼き付いているのだが、京都や奈良のように内陸部の盆地で、寒暖の激しい自然の厳しいところの風景は味があって実に美しいと思う。
   しかし、能「吉野琴」の舞台である吉野へは、随分昔、一度行ったきりで、それも、入口程度であるから、全山、櫻花に覆われた深山幽谷のような雰囲気は味わった経験がない。

   能「吉野琴」は、世阿弥の息子元雅の、天女をシテとした実に美しい曲なのだが、途絶えていて復曲の再演だというから興味深い。
   天女を舞った片山九郎右衛門師の説明をそのまま引用すると、
   ”遠い昔に、妙なる音楽に惹かれて降り立った吉野山で、天女は、琴を弾じる天武天皇の姿を目にしたのです。その瞬間、桜が咲き匂う柔らかな春の夜は、美しい記憶となって天女の目と耳と心に刻まれたに違いありません。忘れがたい一瞬と永遠はメビウスの輪の表と裏のようにつながり、その解き放たれた時間の中で天女が舞う―――”
   後場では、・・・み吉野の、花の遊楽夜も更けて、春の景色も曇りなき、月も吉野の山高み、・・・
   全山、萌えるように咲き乱れて輝く櫻花に、美しい月光が明るく照らし出して風景を荘厳する中を、きれいな衣を身に着けた美しい天女が舞い降りてきて、優雅に舞い始める。
   「天女之舞」の舞など、この口絵写真のビラの天女のように美しい姿で、舞い続けて、私など、カメラのシャッターをきる形で観ているので、一つ一つのシーンが、歌舞伎でいう見得の連続で、絵になっていて感動的であった。
   ・・・明くるや名残なるらん・・・紀貫之に優雅な舞を見せて、月の夜が明けてゆく中を、天女は、橋掛かりを揚幕に向かって歩み始めて、三の松の手前で止まって、前方にすっくと伸ばした左手を静かに胸の前に移して、袖を優雅に頭上に翻して、揚幕に消えて行く。
   舞の優雅さに加えて、ワキが紀貫之(宝生欣哉)で、勿論詞章も美しく、余韻さえ感動的な、素晴らしい舞台であった。
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