熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

初春大歌舞伎・・・團十郎の「助六由縁江戸桜」

2008年01月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   正月の舞台で、團十郎の助六はやはり、格好の演目である。
   全く舞台展開のない実質たった一幕もので、取り立ててストーリーがある訳ではないが、華やかな吉原の遊郭を舞台に、江戸っ子の象徴とも言うべき男前の伊達男・助六が粋の限りを見せ、これに、吉原屈指の花魁・揚巻が絡み、個性豊かな多くの登場人物が愉快な芸を披露する一大ショーのような舞台であるから人気が出ない訳がない。
   市川團十郎家の18番の一つでもあり、上演されると、ビゼーの「カルメン」のように、必ず人気絶頂となって大入りだと言う。今回も、素晴らしい役者陣の活躍で素晴らしい舞台となった。

   ところが、この歌舞伎は、江戸歌舞伎の象徴のように思われているが、実は、揚巻は、京都・島原の傾城で、助六は大阪の豪商の息子だが揚巻に入れあげて蕩尽の限りを尽くして勘当されて心中すると言う事件が発端で、関西和事の浄瑠璃として舞台にあがり、関西歌舞伎としてスタートしているのである。
   二代目團十郎が江戸歌舞伎として新しく編み出し、それに、蘇我兄弟の話が加わって面白くなっているが、本来近松ものの心中の和事の世界のような舞台であった筈が、全く違った粋な伊達男の歌舞伎に変身してしまったあたりは、流石に江戸で、実に面白い。

   仁左衛門が、襲名披露公演の為に、團十郎の向こうを張って江戸歌舞伎座で、助六を演じたが、余程の自信があったのであろう。粋でいなせな素晴らしい助六の舞台を今でも良く覚えている。
   小松成美さんの「仁左衛門恋し」に、始めて助六を演じた時(昭和58年だろうか)の客の面白い反応を伝えている。
   助六の出まで、ロビーで待っていた母に、「贅六(関西人への侮蔑語)の助六など見たくないので帰る」と電話していた客が、芝居を見ないのかと聞いてきたので、「助六の出までここで一服しているのです。私はその贅六、孝夫の母です。」と言った。ニコニコしながら話す母の話を聞いて部屋にいた皆が大笑いしたと言う。
   当然、助六は息子の仁左衛門、揚巻は玉三郎であって、白酒売は藤十郎であった。
   
   ところで、この「助六由縁江戸桜」であるが、助六(実は蘇我五郎)が色町で遊び呆けて喧嘩三昧に明け暮れるのも、養父が預かっていたが行方知らずとなった源氏の重宝の刀・雲切丸を探す為で、揚巻にモーションをかける大尽客髭の意休(左團次)に喧嘩を吹っかけるのも、刀を抜かせて確認したいが為である。
   男っぷりの良い助六が、揚巻(福助)の間夫になるのは必然だが、助六の喧嘩好きを心配して、兄の白酒売新兵衛実は蘇我十郎(梅玉)や母の蘇我満江(芝翫)が諌めに来るが、助六の真意を聞いて納得する。
   母が、派手な刀検めの喧嘩を封印する為に与えた紙衣を着て大人しくなる助六が面白い。
   助六の喧嘩っぷりを、意休の子分であるくわんぺら門兵衛(段四郎)やその又子分の朝顔仙平(歌昇)、国侍の利金太(由次郎)と奈良平(又蔵)、通人の里暁(東蔵)などを相手に展開するのが実に面白い。
   優男で正に和事の世界の住人兄の白酒売との絶妙な掛け合いと、一緒になって股潜りの喧嘩を売る仕草が絶妙であり、楽しませてくれる。

   團十郎は、蛇の目傘を半開きにして顔を傘の隠して前屈みで小走りに鳥屋揚幕から花道に走り込む瞬間から粋である。
   花道を行ったり来たり、傘を小道具にして長い間華麗に踊るが、踊りではなく語りだと言う。真っ黒な表地に真っ白な裏地の着物に、真っ赤な襦袢が襟元と裾からのぞき、それに、紫の鉢巻に黄色いソックスの出で立ちで、白塗りの顔に派手な隈取をして、高下駄を、時にはタップのように踏み鳴らしながら調子を取って錦絵のように格好良く見得を切るのだから、芝居好きにはたまらないのであろう。
   とのかくこの助六、團十郎あっての舞台である。
   
   初役だと言う福助の揚巻だが、進境著しくここまで優雅に、そして、格式と威厳を備えた花魁を演じられるようになったのである。
   素晴らしく豪華な揚巻の衣装をしっかりと着こなして登場するほろ酔い気分の花道の出から絵のように美しい。
   東西随一の花魁としての華と品格を優雅に演じ、意休に対する胸のすく様な啖呵を切るかと思えば、助六の母に従う時は、甲斐甲斐しい世話女房を匂わせるようなしおらしい姿を示す。
   舞台の出入りや場の転換などの時には、そのままシャッターを切れば極上の錦絵になるような素晴らしい姿を見せてくれる。

   やはり、この福助を支えているのは、何よりも同じ舞台で蘇我満江を演じた父親芝翫の存在であろう。存在感十分の舞台で、何故か、シチュエーションもあるが、舞台の團十郎も梅玉も福助も、子供のように小さく見てしまうのが不思議である。
   遅れて女形になった福助に、歌右衛門と雀右衛門の舞台を徹底的に観ることを教えた父親の思いが、今、福助の揚巻で生きている。

   意休の左團次は、正に適役で決定版と言った出来で、灰汁の抜けた重厚な演技が実に良い。
   梅玉の白酒売の何とも言えない柔らかさと優しさが、助六の剛直な演技と好対照で非常に楽しませてくれた。
   段四郎のくわんぺらは、最近、富十郎が多少上等な役作りに特化しつつある分、個性的な老人や重要な脇役を一手に引き受けているような感じで面白い。
   楽しませてくれたのは、歌昇の朝顔仙平で、とぼけた奴のようなコミカルな演技、それに、カレントトピックスを縦横に台詞に取り込んで粋な通人を演じた東蔵で、役者とは器用なものである。
   孝太郎の三浦屋白玉は、中々華があり福助の揚巻を支える好演技。

   段四郎の口上に始まり、三浦屋の格子の裏に陣取った河東節連中に向かって深々と頭を下げて「それでは河東御連中様、なにとぞお始めくだされましょう」と言う言葉で、華やかな楽の音がスタートし素晴らしい助六の舞台が始まる。
   
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