熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ミチクサ先生京都帝大訪問

2021年06月03日 | 生活随想・趣味
   伊集院静の日経新聞小説「ミチクサ先生」を、毎朝、楽しみに読んでいるのだが、今日の記事は、創立直後の京都帝国大学の様子と京都観光について書いていて、急に、懐かしくなってきた。
   この口絵写真は、インターネットのどこからか借用した写真で、この正門から時計台を臨んだ写真は嫌と言うほど撮っているのだが、記憶にあるのは、この時計の下に巨大なチェ・ゲバラの似顔絵が貼り付けられていた安保騒動の時の殺伐とした風景である。
   卒業してからもう60年近く、孫を案内して訪れたのが10年近くも前であり、同窓会にもご無沙汰しているので、記憶の遠くに行ってしまっている。

   京都大学は1897年に設置されたと言うから、2022年、創立125周年を迎える。
   当時、漱石は、初代学長の狩野亨吉に英語教師として強く望まれていたようだったが、京都に住んで何年か教鞭を執っていたら、坊ちゃんとは違った郷土色豊かな雅の古都の雰囲気ムンムンの面白い小説が生まれていたのではないかと思うと興味深い。
   狩野亨吉が、「ここが日本の西の文學を培う場所になるのです。」と言ったので、漱石が、「そうなるといいですね」と応えている。

   当時、どうだったのか分からないが、東京帝大の学生さえ程度が低くて嫌になって、漱石が東大を辞めたのだと言うから、京大の草創期も大変であったと思うが、当然、教授陣は殆ど東大出身であったであろうし、京大色が出てくるのは、生え抜きの学者が輩出するずっと後になってからである。

   私のゼミの先生の岸本誠二郎教授は、京大教授として20年間教鞭を執られていたが、東大出身で、毎週東京から通っておられた。
   非常に誠実な素晴らしい先生で、当時、池田内閣の閣僚が、総理をはじめ、大蔵大臣 の水田三喜男、文部大臣の 荒木萬壽夫が、京大卒であったので、千載一遇のチャンスだと陳情説得して、京都大学経済研究所の創設に尽くして、1962年初代所長となり、その後、引退されている。
   理論経済学の大家で、「分配と価格」に関する基本原理を作り上げたと言うことで、2年間、このゼミで、経済成長や景気循論論などを中心に学んだ。
   日本学士院会員の会員でもあって、中には、「多数決の意味さえ分からない」大先生がおられるのですよ、と浮世離れした話も語っておられた。
   大学院留学中に、丁度、ガルブレイスのEconomics and the Public Purposeが出版されたので、先生に送ったら非常に喜ばれ、偉大な学者だと賞賛されていることを知って、独学していたので教えを請うべきであったと気づいたのだが、私自身、帰国後、すぐにサンパウロ赴任となって、程なく亡くなられたので、その期を逸してしまった。

   京大で残念だったのは、文部省の覚えが宜しくなかったのか、高田保馬の偉大な伝統がありながら、学生の定員が、地方の国立大学の経済学部の定員より遙かに少ない200人で、陣容や講座数も貧弱で、その上に、マル経の教授が過半数を占めていて、近経の講座が少なく限られていて、私など、マルクスを毛嫌いしていたので授業の選択の余地が殆どなかったことである。
   当然のこととして、当時は、ケインズ経済学が脚光を浴びていたがその講座もなく、私など、経済成長や景気循環論については、シュンペーターに傾倒してイノベーションに関心を集中していたので、殆ど、独学独習であった。

   尤も、このフラストレーションは、8年後に、留学したフィラデルフィアのビジネス・スクールでの勉強で一気に解決された。と言っても、シュンペーターやガルブレイスの勉強は独学を続けなければならなかったが、アメリカの友人など、何の役にも立たないマルクスを何故勉強するのかと言う訳である。
   しかし、今では、少しはマルクス経済学を学んでおくべきであったと反省している。

   経済学部では、それ程、良い思い出はないが、宮崎市定の中国論、大石義雄の憲法、桑原武雄の美学や芸術論、湯川秀樹の物理学の話、それに、人文科学研究所の猿や異文化など高名な先生の話など、まさに、学際の豊かさで、触発された授業や講話講演など結構多くて、幸せであったと思っている。

   それに、ミチクサ先生は、祇園、知恩院、清水寺、銀閣寺、詩仙堂、真如堂などを巡ったと言うことだが、京都と言うことが幸いして、私は、趣味と実益を兼ねて、回れる限り殆どの京都の古社寺や名所旧跡を歩き続けた。
   奈良は勿論、三重や兵庫、滋賀や大阪、和歌山と言った近隣の古社寺なども同様で、日本文化の粋と奥深さを味わいたくて、歴史散歩、文化芸術漫歩に明け暮れた。
   これが、高じて、幸いにも、アメリカ留学から、ブラジル、オランダ、イギリスと、舞台が世界に広がったので、グローバルバージョンとなった。

   さて、ミチクサ先生は、八坂神社の鳥居を見つけて、「この先に美味いぜんざいを食べさせる店があったんだが・・・」と言って、正岡子規と行って美味い美味いと食べたぜんざいとミカンのことを懐かしんでいる。
   何故だか、私も、法経教室の壁の合格発表の張り紙を見てホッとして、哲学の道から円山公園に出て、このあたりで小さな店に入って、ぜんざいを食べた記憶があるので、無性に懐かしくなった。

   円山公園の奥にある古社寺で、貧しい学生生活ではありながら、良く、コンパを開いて青春を謳歌していた。
   やると言えば、すき焼きかしゃぶしゃぶだったが、当時は肉が安かったのか、普通に、安酒と肉で、それ相応に、満足なコンパを楽しめた。
   寺に入ったときには、ちらほら降っていた雪が、コンパが果てて出てみると、一面に深い雪景色で、雪に足を取られて転げながら八坂神社を抜けて祇園の交差点に出たのも、懐かしい思い出である。

   京都なら、いくらでも、書けるが、これは、私だけの自己満足なので、これで止める。
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