日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「(余命)告知」の難しさ

2018-11-14 21:12:10 | 徒然

先月、「余命告知」をされなかったため、残された時間を充実させることができなかった、として遺族が医師側を提訴する、ということがあった。
毎日新聞:損賠賠償 余命伝え酢医師を提訴「残りの人生違っていた」

この記事を読んだとき、ある種の違和感を感じた。
「がん」という病気と付き合うようになってから、幾人かのがん患者の友人を送った。
がん患者の友人たちの多くは、「余命告知」を受け、告げられた「余命宣告」よりも長く充実した時間を過ごし、人生を生き切ったという印象を持っている。もちろん、そんなに単純なわけではないし、亡くなられた方の中には無念な思いを残されただろう、と感じる方もいらっしゃった。
それでも「余命告知」というのは、患者自身の受け止め方の違いで随分変わるものだ、と亡くなったがん患者の友人たちは教えてくれたように思っている。

ただ、余命告知を受けたからと言って、残された時間を充実したものにすることができる患者さんそのものは、決して多くはないのでは?という、気がしている。
何故なら、上述したとおり「余命告知」に対して、告知された患者がどう受け止めるのか?という部分で、大きく変わってくるからだ。

「死の科学者」と言われたキューブラー・ロスの名著「死ぬ瞬間」は、まさにがん患者が「がん」という病気に対して、どう感じ・どう受け止め・どう生きたのか?ということをまとめた内容だが、実際には、5つのステップを順当に過ごすのではなく、人の心や意思はとても複雑で常に揺れ動くものだ、と余命告知よりも長く生きたがん患者であった友人の姿を見て感じている。
だからこそ、良心的な医療者は「余命告知を簡単にできないのでは?という、気がしている。
ヨミドクター:余命告知に医師ら苦慮…診断困難、「急変することも」

おそらくご遺族の方からすると、余命告知がされていれば旅行などの「思い出ができたかもしれない」など、様々な思いが交錯しているのだと思う。
しかし、「余命を告知」されても、それを受け止めるのは患者自身なのだ。
その患者が告知をどう感じ・受け止め・理解し・行動したのか?ということは、ご遺族であってもわからないだろう。

それだけではない。
今の医療の問題の一つに「医療者と患者のコミュニケーション」がある。
「がん告知」や「余命告知」などでは、患者やその家族では理解できない専門用語が使われる。
患者やその家族にとっては「外国語を聞いている」ような状況で、短い時間で十分な理解ができないまま判断を迫られる、という場合もある。
「余命告知」というは、「余命、後半年」というほど分かりやすいものではないし、おそらく今の医療従事者はそのような「余命告知」はされていないと思う。

「余命告知」というのは、医療者であっても難しい判断を要することだろうし、その「告知」通りではない、という事実も私たちは知る必要があるように思うのだ。

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AIが仕事を奪うよりも衝撃的なレポート

2018-11-13 13:53:38 | 徒然

Yahoo!のトピックスに「世の中は簡単なことができない人たちで溢れている」というタイトルが、気になった。
NEWSポストセブン:世の中は「簡単なこと」ができない人で溢れている

そして、記事を読むと気になるどころか、衝撃的な内容という気がした。

以前、拙ブログでも新井紀子さんの著書「AI VS 教科書が読めない子どもたち」について、書かせていただいたことがある。
数学の問題と言っても、数式を解くのではなく問題文を読解し、正しい回答を導き出すという今回OECDが実施した「国際成人力調査(PIAAC・ピアック)」とほぼ似た内容の問題だった。

この記事を読んで一つ日本が優秀なのではなく、もしかしたら「日本語」独特の漢字・ひらがな・カタカナという表記によって、読解力が助けられている(という表現はおかしいのだが)のでは?という気がしたのだ。
日本語を母語としない海外の方々からすれば、「日本語」そのものはとても難しい、と言われている。
それは漢字・ひらがな・カタカナという表記の仕方がある為だと言われている(もちろん、発音などの難しさもあるだろう)。
もちろん、英語を習得することは大変だし、女性名詞・男性名詞などがあるフランス語なども、日本人からすれば発音を含め習得することは、大変だ。

しかし「読解」ということだけを考えると、「漢字・ひらがな・カタカナ」という表記があるおかげで、全文を理解する前にある程度の手がかりを見つけ、理解することができる(と思っている)。
だからこそ、「国際成人力調査」でも、日本は成績が良かったのでは?

その「読解力」の助けとなるはずの「漢字・ひらがな・カタカナ」の理解ができなくなっているのでは?と、感じることもしばしばある。
「漢字を知らない」というよりも、SNSなどの普及によって文章そのものを組み立てることができなくなってきているのでは?と、感じるからだ。
「文章の組み立て」ができなければ、読解力も育たないように思われる場面に遭遇することが多くなった気がするのだ。

その一つが、「自分で調べるよりも人に聞く」という人が多くなってきていることだ。
老若男女を問わず、「自分で調べる」という労力を省くことで、効率が良いように思われるかもしれないのだが、結局理解を十分にされないまま、その場しのぎの理解になってしまっているのでは?と、いうことなのだ。
「調べる」にしても、今は「Wikipedia」などがあり簡単に調べることができる。
それすらもせずに、人に聞いているだけでは「(その人の)知の集積」にはならない。

もう一つの理由があるとすれば、戦後多くの人たちが地方から都会へと仕事を求めて「職業の移動」があった、ということも大きいのかもしれない。
米国のトランプ大統領の熱狂的支持者の多くは、祖父の代から「工場勤務」という人達が多い、と言われている。
新しい知識を得る必要が無い環境で、生活をし仕事に就いてきた、という人達でもあるのだ。
ところが、このような地域で起きたこととは「オートメーション化」による人員整理から始まり、社会環境の変化による「エネルギー需要の変化」などが次々とここ30~40年の間で起こったため、その社会変化に対応できないまま、取り残されてきた人たちでもあるのだ。
50年以上前の「日本が憧れるアメリカ」から変わることができない、という人達が数多くいるともいえる。

世界をリードしてきた米国であっても、そのような状況なのだ。
戦後70年余りの間、世界で次々に起きた紛争や戦争によって、「知識を得る機会」を失った人たちのほうが、世界では多いだろうし、そのような環境の人たちが、経済的に安定をしている欧米を目指し移民として、それらの国で定着しているとすれば、社会全体の「言語読解力」が、低くなってしまうということも理解できる。

日本が優秀なのではなく、たまたま日本は戦後恵まれた環境にあった、ということをこのレポートは教えてくれているような気がする。

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「中間選挙が終わったから」というのが理由なのかな?

2018-11-11 23:35:16 | アラカルト

米国のトランプ大統領が、戦没者追悼式典をドタキャンしたらしい。
Huffpost:トランプ大統領「雨だから」とドタキャン 戦没者追悼式典への欠席で批判殺到

「雨で、予定をしていたヘリコプターが飛ばなかったため、式典を欠席した」というのが、理由らしい。
第一次世界大戦の激戦地となったのは、欧州でありトランプさんからすれば、戦没者と言っても100年近く前の話で、現実感が無いということなのかもしれないが、歴代の大統領が出席をしてきた大事な追悼式典に理由はどうであれ、出席しなかったというのは、批判されても仕方ないだろ。

一つ気になったことがある。
それは「中間選挙前だったら?」という点だ。
米国の中間選挙が行われたのは、先週の火曜日。
既に、上院では与党である共和党が多数を占め、下院では野党の民主党が多数を占めることになった。
トランプさんとすれば、中間選挙において一定の評価を得た、と思ったのではないだろうか?
だからこそ、さほど興味のない(?)第一次世界大戦での戦没者追悼式典を欠席しても、問題はないと考えたのでは?という、気がしている。
逆にこれが中間選挙前だとしたら、トランプさんは雨降りでも出席をしたのでは?
理由は、「退役軍人会(のような組織)」に対する票取りだ。

トランプさん支持派の中には、共和党の大票田となっている「福音派」と呼ばれるキリスト教の団体(というのだろうか?)がある。
トランプさん独自?の熱狂的支持者は「穀倉地帯」と呼ばれる中西部の保守層だと、言われている。
もちろん熱狂的な支持の理由は、保護主義的経済において一番恩恵にあずかる可能性が高いからだ。
事実、トランプさんの貿易政策にはその傾向がみられる。

だが、共和党・民主党関係なく政治的な影響力を及ぼす団体がある。
その一つが「退役軍人」を支援する「米国在郷軍人会」や「海外派遣退役軍人会」だと言われている。
というのも、米国には「退役軍人省」という、退役軍人およびその家族のケアや年金給付などをする省庁がある。
それだけではなく、米国では第一次世界大戦が終結をした11月11日は「退役軍人の日」となっている。
AmericanCenterJapan:11月11日「退役軍人の日」
今でも第二次世界大戦から直近の退役軍人は、2500万人以上いると言われている。
その彼らにとって、どのような戦地で命を落としたとしても、自分たちの仲間が命を落とした場所で行われる追悼式典に時の大統領が「雨」という理由で、出席しなかったという事実は、屈辱的な感情を抱かせることくらい、トランプさんでもわかっているはずだと思う。

もちろん11月11日の「退役軍人の日」には、何等かのメッセージをトランプさんがTwitterなどで、つぶやくことはあるかもしれない。
しかし、第二次世界大戦の主要国のトップが追悼式に雨の中出席したのに、トランプさんだけが「雨」を理由に出席しなかった、という事実は、退役軍人の方々の支持を失った可能性はあるように思う。
にもかかわらず、「雨」を理由に欠席できたのは、中間選挙が終わりその結果として「自分が支持をされている」と自信をもっていたからなのでは?という気がする。

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工業化で、忘れてしまったこと

2018-11-09 20:25:33 | ビジネス

時々拝読させていただく、日経新聞のコラム・COMEMO。
その中でも「なるほど!」と、考えさせられるのが大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムだ。
COMEMO:とんちんかんな日本、つながりが悪い日本

今回のコラムを読んでいて、商品価格と商品価値の違いとは?と、考えてしまった。
京都の西陣織りや友禅など、人の手をかけてつくられた商品はとても値段が高い。
「値段が高い」というと、「銭金の話は下世話だ」と感じられる方もいらっしゃると思うのだが、事実高額な商品が多い。

高額な商品と言ったとき、思い浮かぶ「商品の値段」を決めるのは「人件費」だと思うだろう。
もちろん、素材そのものも逸品と言われるような素材を使っていることは、想像できる。
ただ、その場合想像できる範囲というのは、その「商品」をつくっている人や材料と言った部分にとどまってしまうことが多いのでは、無いだろうか?
確かに、そのような材料や人の手間なども重要な「価格要素」であることには違い無いのだが、その「商品」をつくるための道具や道具を作る人、道具をつくるための材料、というところまで想像することは難しいと思う。

しかし「伝統工芸品」と呼ばれるものだけではなく、様々な商品には目の前にある商品は、そのものをつくる人や材料、道具、道具をつくる人、道具の素材などが積み重なりあって出来上がっている。
そう考えると、自分が想像するよりも多くの人が関わり、関わる人達が使う道具があり、その道具の為の材料の価値が、価格となって反映されている、ということになる。

ところが、工業化によりそれらの過程の多くは、人の手から機械へと移り、道具も大量生産された均一の物へと変わっていった。
その結果、「商品の価値」ではなく「商品価格」で、商品の良し悪しを決める傾向が生まれてきたのではないだろうか?
もちろんそれが、戦後日本だけではなく世界の経済を発展させる原動力になったのは、間違いないだろう。
「大量生産・大量消費が良い」によって、日本は高度成長を成し遂げたのだ。

それが行き詰まり、バブル崩壊後経済的立ち直りができないまま30年近く経ってしまった。
今だに「高度成長期」のような、経済成長を目指すようなことを言われる方(特に政治家に多いような気がするのだが)もいるが、多くの人たちは「高度成長期」のような経済成長は無理だと、感じているはずだ。
むしろ「高度経済成長」ではない、経済の在り方をここ30年探し求めてきたともいえるのでは?

伝統工芸のような、素材や素材をつくるための道具を厳選し、手間と時間をかけて人がつくる商品が、市場に溢れるという時代ではないが、つくられる商品の価格ではなく価値を生み出すものは何か?という、想像からビジネスを考えることが必要かもしれない・・・という気がする。

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グローバル企業でなくても、人種や人権を考える時代になっている

2018-11-08 18:53:07 | アラカルト

AppleWatchのCMをご覧になった方は、多いと思う。
youtube:AppleWatch Series4-Hokey Pokey

このCMをご覧になって、気づいたことが無いだろうか?
実に様々な人々がCMに、登場している。
人種や宗教、障害を持っている人、高齢者などなど、今までCMに登場することが無かった様々な人たちが、いろいろな場面に登場し、AppleWatchを健康サポートのツールとして、楽しみながらスポーツやダンス、さりげない日常の場面などで使っている、という内容になっている。

これまでグローバル企業と呼ばれる企業CMあるいは商品CMには、様々な人種の人たちが登場する、というのが定番であった。
AppleWatchは、もう一歩・二歩踏み込んで、宗教や障害、高齢者など、これまでのCMや社会でタブー視?されるような人たちまで、登場させている。
「AppleWatchには、人種も障害も年齢も関係ない。人生を楽しむ人たち全てのツール」と、言うメッセージを謳っているかのようだ。
と同時に、このようなアプローチはいかにもAppleらしい、と感じた方も多かったのではないだろうか?

今や企業CMや商品CMには、このような「すべての人」にアピールできるような内容が、必要な時代になってきている。
それはAppleのような世界的な企業に限ったコトではない。
今日のHuffpostに、改めて人種ということを考えさせられる記事があった。

Huffpost:「バレエ史に残る歴史的瞬間だ」老舗メーカーが茶色のトウシューズを開発したわけ。

「バレエ史に残る歴史的瞬間」とは、大げさな!と思われる方も多いと思う。
私も大袈裟だな~と、最初思った。
しかし考えてみると、ここ20年ほどで日本人バレリーナが世界的コンクールで優勝するようにはなったが、それ以前は手足の長さや細さなどでは圧倒的に欧米の白人の独壇場だった。
むしろ、今のように日本人バレエダンサーがコンクールで優勝あるいは、優勝に次ぐような賞を受賞し、欧州の名門と呼ばれるバレエ団のトップダンサーとなることは、夢のまた夢のような世界だった。
まして、黒人のバレエダンサーとなれば、もっと厳しい状況だっただろう。

世界のバレエ界が、肌の色などで差別をしていたわけではないと思うのだが、どこかで黒人のバレエダンサーに対する評価は、白人のダンサーに比べ高いとは言えなかったのでは?と、感じている。
白人か日本人をはじめとするアジア人であれば、トウシューズはピンクや白で問題はなかったが、黒人のダンサーが増えれば、当然のことながらダンサーの肌の色に合わせる必要が出てくる。
英のメーカーがやっとそのコトに、気づき製造を始めた、ということは「バレエ史に残る」ような出来事だろう。

バレエのトウシューズそのものを製造・販売をしている企業そのものが、小さく・大きな規模ではないのだから、ある意味仕方のないことだろう。
しかし、今という時代だからこそ、世界的企業云々ではなく、様々な人種や人権などに考慮した情報を発信しなくては、社会から受け入れられない、ということのあらわれだろう。

 

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若者たちが求めているのは、どんな繋がり方なのだろう?

2018-11-02 21:26:33 | ライフスタイル

31日の渋谷をはじめとする、都市部の「ハロウィン騒動」の記事の中で、気になったコトがある。
それは、そのような騒ぎに乗じたい若者の中には、「誰かといっしょに写真を撮り、Instagramに上げたい」とインタビューに答えていたのだ。
そして「ハロウィンを一緒に楽しみたい」という理由で、渋谷や戎橋、名古屋ではオアシス21に来た若者が、少なからずいた、ということだった。

おそらく普段の生活の中では、学校や職場でも一緒にお昼ご飯を食べたり、おしゃべりをする相手がいない訳ではないのに、「誰かといっしょにいたい」という気持ちは、どこから来るのだろうか?
日常の中にある他人との関係性に満足できていないのか?日常とは別の人間関係を持ちたい、ということなのだろうか?
最近時々新聞などで話題になる「表の自分とは別にネット上で繋がる虚構を含めた自分」の中での繋がりを持ちたい、ということなのだろうか?
とすれば、その「繋がり」はとても刹那的で、連続性の無いもののように思う。

むしろそのようなイベントで一緒に写真を撮り、Instagramに上げたところでそれは一緒に撮っただけ、人との繋がりはないということくらい、よく理解しているだろう。
とすれば、Instagramで「いいね」をしてくれるフォロワーとの繋がりのために、ハロウィンで仮装をし、楽しんでいる自分を媒体にし、フォロワーと繋がっていることで、新しい人間関係をつくっていると思い込んでいるのではないだろうか?

Instagramで「キラキラした自分・素敵な自分」アピールのツールとして、ハロウィンの仮装があり、様々な意味で注目されているスポット・渋谷(あるいは戎橋)に集まり、騒いでいるとしたら、それは「(ひとり)ぼっちの辛さ」の裏返しのような気がするのだ。
それは日常生活での人間関係が、表面的でその場しのぎだと感じているからこそ、自分が話題の中心になれるSNS上での匿名性の高い人間関係に安心し、アピールできるのでは?

今の20代の多くは、生まれた時からインターネットがあり、面と向かった人との付き合い方以外のネット上の人との繋がりを持つようになった世代でもある。
むしろ、ネット上には様々な情報があり、自分と同じ思考や趣味の人を見つけることが簡単にできる。
そのような繋がりは、互いに共感性を持ちやすく、同一化しやすいはずだ。
だからこそ、ネット上の繋がりのほうが、自分らしさを持てる関係だと思い込んでしまっているのではないだろうか?

集団心理が働き、暴走する若者たちの姿は、その仲間に入ることで安心を求めているのかもしれないし、ネット上の知り合いに自分の凄さをアピールしているのかもしれない。
(ひとり)ぼっちは辛いが、深入りしない「ライト感覚な繋がり」を、求めているようにも思えるのだ。

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若者は何故「渋谷」で騒ぐのか?

2018-11-01 21:24:51 | 徒然

昨夜は、ハロウィンの路上イベントが自主的に各地で行われたようだった。
そして今年も、一番の盛り上がりを見せたのは東京の「渋谷」だったようだ。
もちろん、大阪の道頓堀にかかる「戎橋」でも同様の騒ぎがあったようだが、全国ニュースとなるとやはり人出などから東京の「渋谷」ということになるのだろう。

これらのニュースを見ながら「若者は何故『渋谷』に集まるのだろう?」と、疑問に思った。
おそらく、様々なイベントごとに「渋谷」に若者が集まるようになったのは、2002年のサッカーW杯日韓大会の頃からのように思う。
この時は日本サッカー協会が、渋谷区の道玄坂にあったために、若者が集まってきたのだろ程度に考えていた。
以来サッカーの国際試合では、「渋谷」が「騒ぐ聖地」となったように思っていたのだが、サッカーとは関係のないイベントごとに若者が集まり、大騒ぎをするようになると「何故、渋谷?」という、疑問がわいてくるようになった。
これは、大阪における「戎橋」と同じかもしれないのだが、「戎橋」は以前から阪神タイガースの優勝などでも、多くの若者が集まり「戎橋」から道頓堀へダイブする、という光景は見られたので、東京における「渋谷」の騒ぎとはやや違うのでは?という、気がしている。

一方、実は名古屋でも昨夜はハロウィンで若者たちが集まった場所があった。
その場所は「オアシス21」という、栄のほぼ中心にある商業施設兼バスターミナルの1F広場だ。
「渋谷」や「戎橋」と大きな違いは、場所が「広場」であるということだろう。
路上ではないので、施設内の店舗などには迷惑がかかるが、一般通行人などには迷惑が掛かりにくい場所だともいえる。
当然、「渋谷」や「戎橋」ほどの騒ぎにもなりにくい(と思われる)。
もっとも、名古屋の場合栄などの繁華街は車の通行量も多く、「渋谷」のような大きなスクランブル交差点などもない。
下手に路上で騒げば、身の危険があるという事情もあるかもしれない。

ネットで私のような疑問を持った方はいないのだろうか?と、検索をしてみるとやはり同じような疑問を持たれる方が、何人かいらっしゃった。
その中で興味深かったのは「地形」の問題という、指摘だった。
「渋谷」という場所が、すり鉢状の底にあたるため、人が流れてきやすいのでは?という、指摘だ。
もちろん、「渋谷」にはJRや私鉄など複数の路線の乗り換え駅となっている為、元々人が集まりやすい場所ということもあるだろう。

もう一つは、路上ということも関係しているのでは?という、気がしている。
上述した通り、名古屋の「オアシス21」のような広場では、最初からハロウィン目的で人が集合する。
通行人が、その場の雰囲気にのまれて騒ぐ、ということではないのだ。
もちろん「渋谷」や「戎橋」に仮装して集まった若者たちは、最初からそのつもりで来ているはずだが、人の流れが起きることである一定の人数を超えてしまうと、爆発的にその場の雰囲気にのまれて騒ぐ人が集まりやすくなるのではないだろうか?
いわゆる「火事場の野次馬」のような現象だ。
火事場は、場所が特定されないのでその場限りとなってしまうのだが、「渋谷」や「戎橋」は既に「若者たちがイベントで騒ぐ場所」と、認知されてしまったことで、「騒いでも良い場所」という認識になって、より人が集まり・群集心理のような暴徒化しやすい状況を作ってしまうのではないだろうか?

ただ一つ言えることは、このような「暴徒化した騒ぎ」が起きることで、イベントそのものへ批判が強まり、興味が薄れる(=「騒ぐって、カッコ悪い」という認識の一般化)も起きやすい、ということになると思う。

いずれにしても、ハロウィン市場そのものは2016年のピークに縮小傾向にある、と言われている。
とすれば、このようなハロウィン騒動も数年後には、沈静化しているかもしれない(と、期待している)。

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「ハロウィン」で騒ぐのは、時代遅れ?!

2018-10-30 19:17:52 | トレンド

本来は明日が「ハロウィン」なのだが、季節行事のイベントと化している日本では、先週末が「ハロウィン・イベント」のピークだったようだ。
新聞などでは、渋谷で大騒ぎをし暴徒と化し、中には逮捕者まで出たようだ。
クルマを横転させ、その上で騒ぐのだから当然と言えば当然のことだが、いつから「ハロウィン」にかこつけて、大騒ぎをする日になってしまったのだろう?という、疑問もある。

今朝のFM番組では、渋谷で騒ぐようなハロウィンのスタイルから、家庭や仲間内で楽しむハロウィンへと変わってきている、という話が合った。
それだけではなく、「ハロウィン」市場そのものは、縮小傾向にあるという。
リポビタンD TrendEyes:仮装から食へ?!ハロウィンのトレンドをピックアップ!

「2016年ごろがピークだった」ということは、渋谷で騒ぎが始まった頃が「ハロウィン市場」のピークということになると思う。
とすれば、今年暴徒と化した騒ぎ方をした方々は、「ハロウィンの流行」に乗り遅れた方々、ということになるかもしれない。
今年の「ハロウィンの流行の傾向」は、「地味ハロウィン」だったとも言われている。
オリコン:”渋谷ハロ”の対極”地味ハロウィン”
普段とほとんど変わらない「仮装(=地味な仮装)」で、ハロウィンを楽しむというイベントだったようで、渋谷で大騒ぎをするハロウィンとは違うハロウィンの楽しみ方でむしろこのような「地味なハロウィン」のほうが、今後主流になっていくのかもしれない。

ただ全体的には、友達や家族でハロウィンの気分を味わえるような、食事を楽しむという傾向へと変わりつつあるという。
このようなハロウィンの楽しみ方なら他の人に迷惑は掛からないし、ハロウィンの仮装の為にわざわざ準備する必要もない。気軽にハロウィンを楽しめるということになるだろう。

日本での大騒ぎする「ハロウィン」は、米国などの子どもたちが「お菓子をくれなきゃ、悪戯をするぞ~」と言いながら、カボチャの照明がついている家々を回るものでもなければ、ケルト民の「収穫祭」のような感謝を示すものでもない。
傍から見れば「騒ぎたいだけなのね!」という、日ごろのうっぷん晴らしのようにしか見えない。
だからこそ、季節の行事イベントとして社会から好意的に受け入れられず、「ハロウィン」そのもの市場が縮小してしまう一因になっているのではないだろうか?

ただ、既に市場が縮小傾向にあるということは、ハロウィンという季節のイベントが日本の文化として取り込まれなかった、ということになるだろう。
同様のことが考えられるのは「イースター」ということになりそうだが、商業ベースで海外の季節のイベントを売り込もうとしても、一部の人たちが大騒ぎをすればするほど、多くの生活者は引いてしまい定着しないということだろう。




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「経営」の考え方も、多様になっている?

2018-10-29 19:18:23 | ビジネス

Huffpostをチェックしていたら、興味深い記事があった。
Huffpost:「安いものより、興奮できる商品を」イギリスの化粧品メーカーLUSHが、企業成長より大切にしていること

この記事を読んで思い出した化粧品メーカーがある。
同じイギリスに本社を置く「THE BODY SHOP」だ。
THE BODY SHOPは、現在ブラジルの化粧品会社に買収されてしまったので、厳密にいえばイギリスに本社があるとは言えないかもしれないが、創業そのものはイギリスでアニータ・ロディックという女性が始めた、「化粧品製造における動物実験を禁止」、人権の保護、フェアトレードなど、これまでの化粧品メーカーとは違うアプローチで、いわゆる「自然派」の女性たちから支持を受け、大きく成長してきた企業だ。
その考えをLUSHも引き継いでいる、という印象がある。

企業経営という視点で考えれば、LUSHやTHE BODY SHOPのような考え方は、主流となるものではないかもしれない。
しかし、THE BODY SHOPやLUSHのような考え方に共感し、ファンになる生活者も少なくない。
むしろTHEBODYSHOPやLHUSは、そのようなファンをつかみ成長してきた企業だといえるかもしれない。
と言っても、それは本国イギリスや米国などの市場において、という注釈が必要かもしれない。

何故なら、日本ではTHE BODY SHOPやLUSHで買い物をしている方たちは、そのような企業の考え方に共感しているというよりも、「その商品が好きだから」とか「このお店が気に入っている」という、買い物に対してもっとシンプルな動機で来店しているのでは?という、気がするからだ。
逆に言えば、Huffpostの記事にあるように「興奮できる(=ワクワク感がある)商品」が、これらのお店や商品にはある、ということになると思う。

この「興奮できる商品」という点だが、マネージメントの父と言われたドラッカーはGMに呼ばれたとき、ウェルチ氏に「GMは、様々な事業を展開しているが、その中でワクワクできる事業だけに絞るべきだ」とアドバイスをした、と言われている。
「ワクワクできる事業」というのは、それだけ熱意をもってできる事業とも理解できる。
化粧品メーカーだから、ファンデーションやマスカラ、チークと言ったメイクアップ商品を作らなくてはいけない、という決まりごとはない。
むしろ、石けんやボディーソープなど「素肌がきれいになる」とか、バスボム(発泡性の固形の入浴剤)のような「リラックスすることで、キレイになれる」という商品もまた「キレイになる」という点では、化粧品と言えるかもしれない。

今のように、生活者の考えやライフスタイルが多様になってくると、教科書通りの経営が正解ではない、ということかもしれない。
大きな市場は得られなくても、経営や企業の考え方に共感し、ファンとなる顧客を創るという経営もまた、今の時代には有りという気がする。


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生活者のほうが、客観的で冷静な分析をしている?

2018-10-26 23:04:24 | マーケティング

Yahoo!のトピックスなどは、よくチェックをしているのだが、チェックをするだけではなく、ユーザーの書き込みなどもチェックをしている。
その書き込みなどを読んでいると、下手な(と言っては失礼だが)経済誌の記者さんたちよりも客観的で冷静な分析をしているな~と、感じることがある。
その一つが、東洋経済の神戸洋菓子店破たんの記事だ。
Yahoo!トピックス東洋経済:神戸洋菓子店が破綻、「地方スィーツ」の落日

この記事で取り上げられている神戸の洋菓子店を存じ上げないので、実際地元ではどのような評判店であったのかは知らない。
ユーザーの書き込みなどを見ると、地元で今一番の評判店というわけではなかったようだ。
書き込みの内容も、洋菓子店オーナーの態度から実際に販売されていた洋菓子などについての感想が、書かれている。
それらすべての信憑性という点では、分からない部分もあるが、問題点を的確に指摘しているのでは?と、感じるものも多い。
一番納得できた書き込みは、「神戸の洋菓子店の破たん=地方スィーツの落日」という、決めつけのようなタイトルや記事に内容についての「違うのでは?」という指摘だ。

確かに、神戸は横浜と並ぶ「ハイカラ」な街だ。
当然のように、おしゃれな洋菓子店がいくつもあるだろう。
事業を拡大し、この記事で取り上げられたような洋菓子店も中にはあるかもしれない。
だからと言って、破綻した洋菓子店のようなお店ばかりではないだろうし、それは何も神戸に限ったコトではないはずだ。
「地方」の反対を示す「東京」であっても、破綻した洋菓子店と同じようなお店はあるのでは?という、指摘の書き込みには納得できる。

「しっとり系バームクーヘン」人気をつくった「クラブハリエ」は、滋賀県に本社を置く和菓子の「たねや」が展開をしている。
地方と言えば、神戸よりも地方都市の洋菓子店だ。
そして「クラブハリエ」の人気は、落ちるどころか百貨店などでは行列ができる人気店となっている。
百貨店に出店はしていないものの、堅実な経営をしながら、店舗を増やしている洋菓子店も全国には多いはずだ。
何より大切なことは、「味を落とさない」とか「身の丈以上の事業拡大をしない」という、ビジネスでは当たり前のことを守っているか・否か?という点ではないだろうか?

記事にある通り、コンビニスィーツが人気であることは確かだ。
しかし、コンビニスィーツを買う時と洋菓子店でケーキなどを買う時とでは、生活者の気分が違うのではないだろうか?
コンビニスィーツの良さは、「気軽さ」だ。
「お弁当を買った次いでのデザート」、「コーヒーのお供に」といった感じでの買い方をしている生活者が、多いのでは?
一方、洋菓子店でスィーツを買う時は、ショーケースの前であれこれ考え・迷い・選ぶという、チョッとした「特別感」のようなものがある。
もちろん、洋菓子店を選ぶときの重要ポイントは「味」だ。
ケーキのスポンジやクリーム、チョコレートなど自分の好みに合ったお店で、スィーツを選ぶことになる。
そのような生活者の需要に、敏感に応えられなければ都市規模とは関係なく、淘汰されていくというだけのことではないだろうか?

もちろん「美味しい」のに、撤退を余儀なくされる洋菓子店はある。
そのような場合は、店舗のあるビジネス環境の変化(シャッター通りの商店街など)など、他の要素が多分に含まれているのではないだろうか?

そう考えると様々な視点から、この「神戸の洋菓子店の破綻」の記事について、書き込まれた内容を読んでみると、生活者のほうが経済記者よりも冷静に客観的に分析をしているのでは?という、気がしてくるのだ。



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