先週末から話題となっている、キム・カーダシアンの補正下着のブランド名「KIMONO」。
日本国内では「(日本)文化の冒涜」、「着物を補正下着の名前に付けるのは、いかがなものか?」という、問題視する発言などがネット上で見ることができる。
昨日、拙ブログでも同様の指摘をさせていただいた。
確かに、キム・カーダシアンのネーミングのセンスの悪さは否めない。
だが、その点だけにとどまっていては、同様の問題が今後もカタチを変え、出てくるのでは?という気がしている。
いつの頃からか?着物の半襟にレースの襟を付けるようになった。
着物を着慣れている人たちからすれば、「邪道」ということになるのだが、このレース襟若い女性の間では評判が良かったのだ。
理由は「洋服感覚で、カワイイ」ということらしい。
同じ頃からだろうか?女児の浴衣にも同様の傾向がみられるようになった。
その傾向はますます顕著になり、襟や裾にレースがついているのはもちろん、帯(子供の場合は兵児帯だが)の代わりに共布のリボン(これにもレースが縫い付けてある)という、二部式のゆかたが人気になっている。
「二部式」というのは、ブラウスとスカートのように分かれている着物の形式のことを言うのだが、この女児の二部式浴衣の場合は本当にスカートのようなボリューム感を出すデザインとなっている。
浴衣と洋服の中間のような、中途半端な衣装が出来上がってしまったのだ。
実はこの浴衣を初めて見た時、めまいが起きそうになった。
何故なら、女児の浴衣として少しも可愛くなかったからだ。
しかし、市場的にはこのような女児の浴衣は人気があり、今頃の時期になるとこのような浴衣を見かけることとなる。
人気となった理由には、レースやフリルがついてかわいいから着てみたい!というお子さんの希望もあるだろうが、親御さんとしても着せやすい、という理由があると考えている。
着物業界としては、何とか市場の維持のための策としてこのようなデザインや、上述したようなレースの襟などを売り出したのだと思う。
そして図らずも成功してしまった。
そのため作り続けているのだと思うのだが、もしかしたらこのような「着物本来の着方をしない」ということが、キム・カーダシアンのネーミングにつながってしまったのでは?という、気もしているのだ。
現在のような着物になったのは、江戸時代よりも前だったと思う。
平安時代の上流階級の女性たちは、10㎏以上もする十二単を着ている。
ただそれほど重い衣装を着るとなると、身軽に動くことができず、十二単を着るような身分の女性たちは膝行る(「いざる」と読む)ようにして動いていた、と言われている。
時代が変わり、公家社会から武士社会へと変化する中で、着物そのものも動きやすいものへと変化していく。
十二単の唐衣(十二単で一番最後に着る着物)などはなくなり、小袖と呼ばれる内衣が主流となっていき、それが今の着物へと発展していくのだ。
時代や生活の変化により、着物そのものも変化をしていくのだが、「市場を維持するための策」として提案されたものを見ると、やはり違和感というか、本末転倒のような気がしてくるのだ。
何より、着物を着た時の女性の所作の美しさが無くなってしまうだけではなく、変に着飾ることが着物だという認識を持ってしまうのでは?という懸念をしている。
その一つが、若い女性が花魁風の浴衣の着方をしていることだ。
ご存じの通り花魁というのは、遊郭に売られた少女たちのトップだ。
トップになる為には、抜群の芸事もコミュニケーション力を身に着ける必要がある。
相手にするのは、超が付くほどの教養もお金もある男たちだからだ。
だが悲しいかな、色を売る女であるコトには変わりない。
そのような(悲しみを持った)女性たちの姿を見て、表面的なカッコよさだけで真似る、というのは日本女性としてどうなのだろう?
着物業界全体が「売る」ことばかりを優先し、「着物」という文化や社会的背景などを伝えてこなかった結果が、今の着物と洋服の中間のような中途半端な女児の浴衣や、若い女性の花魁風の浴衣の着方となっているのでは?
それが、日本文化を知らない上っ面の日本ファンが真似をした結果の一つが、キム・カーダシアンの「KIMONO」という発想に結びついているような気がするのだ。