へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

学力テスト

2009年04月21日 03時07分43秒 | Weblog
学力テストの結果を公表するかしないかでもめているようだが、結果を公表しない学力テストに一体何の意味があるのだろうか?。
今問題になっている「学力テスト」は、私が小学校時代に受けた「標準テスト」と同じような物らしいのだが、私が標準テストを受けた頃は、「受験者の数と順位」は答案用紙にハッキリと書かれて返されてきたことを思い出す。
「順位を公表すると競争をあおる」と言うような理由で公表をしないらしいのだが、実社会が「競争原理」に支配されていることを考えれば「過保護に過ぎる」と言うべきではないだろうか・・・・。
そもそも、学力テストが復活した主な理由には「世界各国の中での日本の学力レベルが低下している」と言うことがあるだろうが、このこと事態が「競争原理に支配されている」と言うことで、「競争をあおる」などということ事態が矛盾していることに気が付かないのだろうか?。
公立校は全てが受験を受け入れたようであるが、私立校では受験する割合が大幅に低下しているが、これは至極当然の結果と言うべきだろう。
「至極当然の結果」と書いたのだが、私の経験から考えても、一部の私立校を除いた多くの私立校にとって「学力テストのレベルが低すぎて受ける意味がない」と言うのが本音なのである。
中学1年から、理科は「物理・化学・生物」に、数学は「幾何・代数」、社会は「政治経済・歴史・地理」、国語は「漢文・古文・現代文」と細分され、尚且つ「選択ではなく全教科必修」で、各教科には「その教科専門(エキスパート)の教師が教える」と言うのだからレベルの差は歴然とした物があり、「学力テストを受けるのは時間の無駄」と言うことになってしまうのである。
「学校など何処でも同じ」と考える人もいるだろうが、現実には「月とすっぽん程の差」があることを理解するべきだろう。
「競争をあおる」と言うことが問題視されて、運動会でも順位を付ける事をしなくなっているようなのだが、「競争が能力を向上させる」と言うことが忘れられているようで、なんとも嘆かわしい話である。
改めて「結果を公表しない学力テスト」を考えてみると、その陰に「モンスターペアレント」の存在が大きな影響を与えているような気もするが、個人の力が強くなり過ぎたことの弊害がこんな所にも現れているのではないだろうか?。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うではないか。
過保護に育って世代が担う将来は・・・・・。

コメント
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