陸に上がったカッパの海無し県生活

潜りから漁師へ。身体を壊し船を下りた。
海の話、釣りの話。脳脊髄液減少症。

脳脊髄液減少症とは。 新聞記事から

2006-03-19 00:26:38 | 脳脊髄液減少症
新聞には、数人の体験談から、病気の症状、治療法などが
書いてあった。そして最後にその時点で治療をしている
病院の名前も紹介してあった。

発症原因としては・・・
 鞭打ちの後遺症、スポーツによる障害、転んだり、尻餅をついただけでも、
 女性の場合は出産などによっても発症することなどもあり、
 本人の自覚がないまま、気づいたら色々な症状が出ていたと言うことも多いようです。
 

その症状とは・・・現在も続いている僕の症状を書いておこう。
 頭痛、眩暈、浮遊感、目の霞、眩しい、文字などが二重に見える、
 耳鳴り、口の呂律が回らない、顎間接の痛み、食べ物が噛み辛い、
 吐き気、不整脈、首から肩、肩甲骨の周り、肘から下の腕の激しい痛み、
 手足の痺れ、極度の倦怠感、疲労感、物忘れが酷い、etc・・・
簡単に列挙したが、そのどれもが非常に辛いものがある。

数え上げたら、きりが無いほどの症状がある。
直接、命に関わる病気ではないものの、終いには鬱病になり、
自殺を考えたり試みたりする人も多いようだ。
これは病気の辛さに加え、他人に理解されない、職も失い、
経済的にも破綻を迎える。そして家族からも見放されたりと色々あるようだ。
僕の場合、心臓が一瞬止まり倒れそうになることもあり、
2~3回は、このまま、あの世行きかと諦め目をつぶった事もある。
心臓の検査では何の異常も出ないのですが・・・
そしてその後、ある程度の身の回りの整理は済ませてある。
またある時は強い浮遊感(頭の中、身体がフワフワする)の為、
車を崖下に転落させ廃車にしたり、
転んで(やたらと意味なく転ぶ)肋骨を折ったりと、病気に伴い、
色々な差し障りも数多く出てきました。

そして、新聞に出ていた病院のなかから、いくつかの病院に連絡をとること
にしました。どこの病院も遠い為、初診から入院させてくれ、
治療までをしてくれる病院を選びました。また、この時点では保険の適用される病院も少なかったようですが、
この病院は保険も適用されると言うことでした。
電話予約の時点で病気のことに関しての資料なども送付してくれ、
僕の、沈んでいた気持ちも少し明るくなった。

こうして入院日は決まったが、4ヶ月も先の事だった。
そしてこの頃には新たな問題も出てくる事になるのであった・・・










絶望から、希望の光が・・・

2006-03-19 00:26:16 | 脳脊髄液減少症
結局、温泉治療、温熱治療も無駄に終わり、
途方に暮れた僕はまた、仕事に復帰することになる。
いくら辛いとはいえ、仕事をしなければ生活出来ない。
また地獄のような辛さに耐えなければならない。

この頃には、「もう生活保護でも申請して苦しみから逃れようか?」
「いっそ死んでしまったほうが楽になれる?」等々・・・
色々な考えが頭をよぎるようになって行く。
しかし、もうすでに精神的にボロボロの状態。
これ以上は、みじめな思いはしたくない。
仕事中の辛さは身体が固まって声も出ない程の状態になっていくが、
何とか日々を耐えていく。

幸か不幸か、近海の漁師というのは海がシケると仕事が休みになる。
網の修理や船のドック作業がなければ休みが多い。
仕事中はキツイが、これには結構、救われたかも知れない。

この頃、医者には「抗鬱財でも飲んでみますか?」と勧められる。
確かに身体の痛みや不安感などに多少の効果があることは
色々と調べて知ってはいたのだが。
これは抵抗感があり、丁重にお断りした。
この後、同じ病気の人間で、抗鬱剤を飲み始めてから
精神的にホントにおかしくなっていった人間を何人か見た。
これは病気の辛さからか、薬のせいなのか、僕には分からない。
しかし、薬が切れた時、凄く辛くなると言っていた。
実際に暴力衝動などが起こり、それを押さえきれなくなってしまう
人間も見た。
抗鬱剤を飲んでいたらどうなっていたのだろうか?
また、医者が代わると、話しをしただけで「もう治らないよ」
いきなりそう言われることもあった。
これには腹の中が煮えたぎり、その医者をぶん殴って帰ろうかとも
思った事もある。何とか寸前の所で、押さえたが・・・

もう医者も、あてにならない・・・
そんな絶望の気持ちで何ヶ月かを過ごすうち、
ある新聞記事が目に留まった。
医療の現場からという最新治療の特集を組んでいて、
「脳脊髄液減少症」という病気を知ったのだ。
今から3年近く前のことだろうか?
読んでいくうちに、症状が自分と全く同じで、治療法も書いてある。

自分の心の中に、パッと一筋の光が走ったような気がした・・・






若いのに湯治?無駄な入院

2006-03-19 00:25:51 | 脳脊髄液減少症
整形外科で見放された僕は、先生に言った。
「とても我慢出来ないので何とかして下さい」と、
先生は困った様な顔で、
「今やるとしたら、温熱治療、電器治療、マッサージを続ける位しかないですよ」
との返事がある。しかし、その治療だけでは入院は出来ませんよ、とも。
日常生活さえ、ままならない状態。仕事先や、近所の目もある。
毎日プラプラし、数時間の通院治療では、とても言い訳?出来ない。
見た目はなんともない、それどころか、K空手で鍛えていたから、
いわゆる、マッチョマンタイプの僕はとても病人には見られない。
この頃には多分、周りの人間からは「怠け者」位にしか見られて
いなかったと想像できる。
これがこの病気の病気以上に辛い事かもしれない。
誰からも理解されないのだ。

困り果てた僕は、個人病院で、温泉があって、数種類の温熱治療などが出来る
病院を探し、またまた入院する事になるのだ。
効果を疑いながらも、しかし、藁にもすがる思いだった。
約束は2ヶ月間だ。
入院してから、気持ち的には楽になる。暫くはのんびり出来るし、
もしかしたら病状も良くなるかも?、いや、治ってくれと、淡い希望も持てるからだ。
しかし、退院が近くなっても、一向に良くなる気配は無く、
その気持ちは焦りへと変わっていく・・・

その後、脳脊髄液減少症という病名を知るのに
この時からまだ数ヶ月を要することになる・・・


2度目の手術

2006-03-19 00:25:23 | 脳脊髄液減少症
結局、はっきりとした原因も分からないまま、再び首の手術を受ける事になる。
今思えば、これが良くなかったのかもしれない。
前回は首の前からの手術。この時は首の後ろから。
取り敢えず、首の後ろを開け、1番から7番までの骨を
観音開きのように開け、神経の通り道を広げるというもの。
そして前にヘルニアの原因が見つかれば、同時に前からも手術をするという。

後ろからの手術は危険性は少ないが、術後、肩の凝りが半年から1年は
残りますよ。とは言われたのだが・・・

結局、前方からは手術する事は無く、後方のみで手術は終わる。
そして昔とは違い、術後2日目から動けるとのこと。
その点の苦しみは減ったのだが。

通算で2ヶ月程の入院で退院を迎えることになるが、前回の手術同様
全て治ると思っていた僕には、それからが苦しみとの闘いとなった。

退院から3ヶ月ほどで仕事には復帰するのだが・・・
とてもじゃないが日常生活も満足に送れないほどの首の痛みが残っている。
首から肩、背中は、まるで石のような固さだ。
それを無理に動かすと背中の筋がブチブチと音を立て切れるのが分かる。
その痛みが手術前からのものなのか、手術が原因で出たものなのか
自分でも分からない。
中腰で下を向く様な姿勢をとると、ほんの5分10分で泣きたくなるほどの
痛みが襲って来る。座る姿勢も辛い。

我慢に我慢を重ね、半年が過ぎ1年が過ぎるが、一向に治る気配は無い。
手術の結果は病状の悪化を招いただけかも知れない。
あまりの辛さに再び検査入院をすることとなる。
が、もう整形外科では処置のしようがなく、痛み止めの注射と飲み薬の
服用で様子を見てもらうしかないと言われる。

だがここで直後に、またまた入院することとなる・・・
そしてこの時点では脳脊髄液減少症などという病名は、
まだまだ知る由もなかった。







最初の入院?

2006-03-19 00:25:00 | 脳脊髄液減少症
最初の入院としたが、実は発症に関係するかも知れない入院が、過去2回。
1回目は、幼少時ブランコに乗っていて後頭部から転落。
激しい頭痛と何度にも渡る嘔吐。2週間で退院。
この後より現在に至るまで偏頭痛に悩まされる。

そして今から11年程前、頭の真上に荷物を落とし、やはり最初は右手の痺れ
から始まり、首の付け根の激痛、身体のだるさ、そして心臓の動きが酷くなり、
入院。この時は検査でハッキリとした頚椎ヘルニアの所見が出る。
この時は手術前にも神経ブロックなどの治療を何度か受けた為、
5ヶ月余に渡る長期入院となった。
そして手術。当時はまだあまりプレートなどを入れる事は無く、
完全に骨が固まるまで、頭を砂嚢(砂を入れた袋)で固定し、
手術後、約2ヶ月間その状態で過ごす事となる。
これは本当に地獄の苦しみだった。
天井を向いたままでベッドを起こす事も許可されず、
もちろん寝返りさえうてない。
そしてその苦痛から感じる時間の長さ。まるで1分が10時間にも
感じるほどだった。トイレも困ったが、これは恥ずかしさの問題だけ。
食事は前にも書いたが腹の上に、おぼんを置き、左手に鏡を持ち
それを見ながら、右手でまさぐるという感じだ。
しかし、まるっきり動けない苦痛というのは次第に恐怖感にさえなる。
もう死んでもいいから身体を起こしたい、頭を動かしたい、
そして僕は看護婦さんに「身体をベッドに縛り付けてくれ」とお願いした。
でもそれは同じ病室の皆さんの助けもあって何とか乗り切れた。

大きな鏡を買って来てくれてTVを見せてくれたり、時にはベッドごと
病室の外に連れ出してくれて気分転換させてくれたり、あの時、
仲間が色々と助けてくれた事は本当に涙が出るほど嬉しかった。

そして動ける様になった時の喜びは例えようが無い。
さすがに何ヶ月も寝たきりだったので立とうとしても膝が崩れてしまって
立てなかったが・・・

暫くは車椅子で過ごすが、医師の許可が出ると毎日朝から晩まで歩行器に掴まり
歩いた。
回復力の早さには担当の先生にも「プロレスラー並みです」と驚きの言葉を
貰った。
この頃には入院時の症状もすっかりと消え、退院を迎える事となる。
あとは体力の回復を待つだけとなり、2ヶ月後より仕事に戻る事が出来た。

しかし、頭を強打したり、交通事故、スポーツ障害など、
どこで後遺症が出てくるか分からない。
それがこの病気のやっかいなところだ・・・

この入院から7年後、前回書いた記事の入院となる。


脳脊髄液減少症 発症

2006-03-19 00:24:36 | 脳脊髄液減少症
ある日、急に右手が使えなくなった。
これが僕の脳脊髄液減少症との長い?闘病の始まりだ。

その時は漁師をやっている時で、漁の最中は普通に仕事をしていたのだが、
漁師というのは、以外と細かい仕事も多い。
漁の合間には網の修理や、その他、色々とやらなければならない。
網を修理する時に使う、糸を巻いた(あぐり)という竹で作った小さな
道具が持てないのだ。何で?そうこうするうちに、箸が使えなくなる。
ボールペンも持てなくなる。そして背中の筋肉がパンパンに張り出した。
身体も、だるくてしょうがない。

1ヶ月ほど我慢していたが、我慢出来なくなり、病院に行き整形外科で
診察を受ける事になった。
検査を何度か繰り返すが、先生も確信のある返事をしない。
因みに、その頃はまだ脳脊髄液減少症という病気はまだ聞いた事がなかった。
多分、医者でも知らなかっただろう。4年近く前の話しだ。
そして入院。

入院してからも検査の繰り返しで、はっきりとした診断が出ない。
そして原因が断定出来ないまま、手術をする事になった。
この時の病名は脊椎椎間板ヘルニアということになってはいるのだが・・・


脳脊髄液減少症 闘病記

2006-03-19 00:24:09 | 脳脊髄液減少症
これから、少しずつ脳脊髄液減少症のことについて
僕の発症から治療経験のことなどを綴っていこうかと思っている。

同じ病気で苦しんでいる人や、同じ様な症状で苦しんでいて、
まだこの病名について知らない人の為に少しでも参考になればと思います。
僕自身が、そして多くの皆さんが社会復帰出来る様に切に願います。

しかし、病気のことばかり考えていると憂鬱になってくるので、
色々な話しに脱線しながら、とびとびの闘病記になると思います。
病気のことは気楽に考える事も大事な事だと思います。
僕のことを、病気の癖に何て脳天気な奴だろうと思って構いませんよ。
だから皆さんも肩の力を抜いて、息抜きの為に、寄り道して下さいな。
一緒に頑張りましょうね


続き・・・

2006-03-19 00:18:08 | 釣り場であったホントに怖い話
続き・・・
橋の上から女性が・・・「ハイ?」僕は返事を返した。
「ボートに乗せて~」こ・この展開は~。
今で言う逆ナンかっ。
もちろんボートを全力で岸につけたのは間違いありません。
胸の鼓動はバクバク
さあ、それから頭の中は妄想で一杯です
どういう展開にもっていこうか、女性を乗せボートは湖面に滑り出しました。
ただ、薄いサングラスの奥の目を見た僕は背筋にゾ~ッとするものを
感じたのです。表情に感情がないというのか、なんとも言えない顔で彼女は
色々と質問してきました。今となっては何を話したのか定かではありません。
たった一言を除いては。

「死ににきたんだ~」
僕のスケベ心は一気に吹き飛び、髪の毛が総毛立ちました。

場所は冷たい湖の上。も、もしかして道連れに
後になって考えてみれば、橋から覗き込んでいたのも飛び降りるつもりだったのか?
「死にたくない~」彼女のことよりも、真っ先にその気持ちが頭の中をよぎりました。それからというもの、時間にして数十分でしょうか、彼女をなだめすかし
「そんなこと考えちゃダメだよ」そう繰り返していたような記憶があります。
何とか思いを踏みとどまったのか彼女を無事、湖岸に降ろすことが出来ました。
その間の僕の心の中が一体どういう状態だったか、ホントに生きた心地が
しませんでした。
「ちゃんと家に帰ってね~」もう釣りどころではありません。
一目散にボート屋さんに帰り、家路に着きました。
その日一日、僕は落ち着きを取り戻せないまま過ごすことになりました。
彼女が、どういう人生を送ってきたのか?
無事に帰っただろうか?
僕の対応は、あれで良かったのだろうか?
まんじりとした夜を向かえ眠りにつくことが出来ませんでした。
その後の彼女のことは、もちろん知りえません。
ただ、彼女が幸せに過ごしていることを願うばかりです・・・・・・

釣り場であったホントに怖い話 序章

2006-03-19 00:09:34 | 釣り場であったホントに怖い話
釣り場であったホントに怖い話ギャ~ッ
釣り人の間では良くある話ですね。
実は僕もあるんです。もしかしたら一番怖いかも・・・
あれはもう大分前になりますが、当時お気に入りのサニトラを駆って
河口湖にバス釣りに行った時の事です。因みに当時はまだトラッキンの、
はしりの頃で、トラックやバンを改造して乗ってる人は、滅多にいませんでした。
この車は可愛くて女の子にも人気がありました。
当時は東京に住んでいましたが、まだ首都高と中央道は繋がっていなかった記憶が
あります。(歳がバレますね)それでもアクセルベタ踏みのドライブで2時間ほどで到着したのではないでしょうか。と、ここまでは何もないですね。
ボートに乗り,40cmクラスを1匹釣り上げ、河口湖大橋の下を通過しようとした
時から僕の怖い話が始まります・・・
橋の上から「お兄さ~ん」と声が聞こえました。
ふと、上を見ると、ちょっと年上の、うら若き女性が僕を呼んでいるではありませんか
スケベ心満載の僕は・・・次回に続く

釣り場であったホントに怖い話

2006-03-19 00:08:56 | 釣り場であったホントに怖い話
釣り人、海岸で漂流死体を発見。
良く聞く話ですね。

これは僕が釣りに行った時の話ではないのですが・・・
仕事で潜りをやっていた時がありました。
潜り、あるいは水中土方、この仕事をしている人は誇りをもって
そう言います。
決してダイバーとは言いません。それは次の機会に譲るとして・・・

東京湾のある岸壁、投げ釣りの人や、スズキ狙いのルアーマンが多い
場所での話しです。
大型船の着く岸壁では時々、海底に障害物など無いか調査をします。
ソナー(魚探と同じ様なもの)で海底を調べると、何かしら突起状の物が
画面に写る事があるんですね。
そこからは潜りの仕事です。
潜って調べてほしいと依頼があります。
そこに何があるか?皆さん分かりますか?

車なんです
さあ、そこから警察に連絡し、クレーンを手配し、
いよいよ引き揚げ作業にかかります。
その日は大漁?で、数時間の間に3台もの車を発見しました。
3台とも無事に引き揚げ、そこから警察の現場検証です。
その時、僕は見てしまいました。
1台目の車のドアを警察官が開けた瞬間、そこから出てきたものは・・・

ゴロン、と音がした方を見るとそこにはなんと頭骸骨が転がっていました。
もちろん他の車にもちゃんと白骨体と化したドライバーが眠っていました。
3台ともフロントガラスが割れています。
警察官の話では猛スピードで海に突っ込む時、岸壁にある車止めに当たった瞬間
ハンドルに胸を強打し、さらに頭からフロントガラスに突っ込むのではないか、
だから、おそらくその時点で気を失っているか、死んでいるのではないか、
という事でした。
車の状態や遺体の状態から、おそらく数年は海底に沈んでいた様です。
何故、この時に限って3台もの車が見つかったのでしょう?
何か寂しいものを感じながら、僕らは車を走らせました。

釣り人の皆さん・・・あなたの根掛かりした糸の先には
時に針に、まるで髪の毛の様な物が絡んでくる事がありますが、
それは、あなたへの何かのメッセージかも知れません。
夜の単独行は控えたほうがいいかも。
くれぐれも注意を



フローティングミノーで1mの真鯛

2006-03-19 00:08:07 | 釣りの話
全長1m、重量13,4Kの真鯛。
これは船からの釣果ではありません。
磯からのヒラスズキ狙いの外道?として喰ってきたものです。
カメラにデータが残っていないので魚拓の小さな写真ですが。

ルアーは12cmのフローティングミノー。ラインは16ポンドテスト。
まさか?と疑問を投げる人もいるかも知れませんね?
でも、もしかしたら貴方の身近な釣り場でも可能性があるかも・・・
磯から真鯛が釣れる場所として良く聞くのが、
九州地方、伊豆七島、日本海側の磯などでしょうか?
実際に九州のある地方や、日本海の某離島ではフローティングミノーでの
釣果がかなりあるようです。

こいつを釣った日は波高4m、釣りは諦めていたんですが、海を見に行くと、
まだ大シケになる直前で、30分くらいなら出来るかなという
ギリギリの状況でした。実際に釣り場にいたのもその程度の時間です。
安全策をとって磯の先端には出ず、ワンドの手前から超遠投で50m位先の
サラシを狙いました。確か、僅か4投目にヒットしたと思います。
それまでにもルアーで何匹も真鯛を釣っているので竿に伝わる
感触から真鯛だと実感し、慎重にやり取りしました。
ヒラマサなどとは違い、根に突っ込んで行く心配はあまりないので
引きは強いですが、糸を出しながら、ゆっくりやれば絶対獲れると思いました。
しかし、底根の荒い場所なので、途中何度か根に張り付かれましたが、
海がシケて来る状況の中、ゆっくりしていられなくなり、強引に勝負に出て
無事、浮かせる事が出来ました。
ウネリでギャフを掛けるのにてこずりましたが、そのあまりの大きさにビックリ
しかし、海は大シケの状態となって、見とれている暇はありません。
大急ぎでドンゴロスに魚を入れ、担いで磯を後にしますが、その重いこと、重いこと。

しかも帰りの磯場は足元が悪く、難所もあります。そこを無事に通過、
もう安心という所まできました。
ここからの話には、おまけ話があるので次回、もう少し続き話をしましょう。