一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

100年に一度の経済危機

2009-01-04 | 自分のこと
年末年始のテレビ番組でも「100年に一度の経済危機」というフレーズが乱発されていましたが、それで何かが解決するわけでも言い訳になるわけでもないんじゃないかと思いながらふと考えたのが、

我々の先祖が100年前の経済危機を生き延びることができたからこそ我々が存在している

ということ。


そこで、正月に実家に帰って昔話を聞いたりしながら、この100年間私の先祖はどういう目にあってきたきたんだろうということを振り返ってみました



父親は新潟の漁村の漁師の分家の生まれで、多分100年前も先祖は細々と漁師をやっていたに違いなかろう、ということで明治・大正の頃のことはよくわかりません。

一方、母方の曽祖父という人は明治時代に北関東で手広く運送業を営んでいて羽振りがよかったのだそうです。
ただ、案の定一山当てた人の例にもれず、妾は囲うわ競馬の馬主業に金を突っ込むわで身上を食いつぶしてしまったとか。
明治30年代生まれの祖母が嫁に入った頃はもうそれほどの勢いはなく、鉄道馬車の権利は借金の抵当に某私鉄に取られるなどして商売は左前だったそうです。ただ、お妾さんは健在で、祖母は舅である曽祖父からお妾さんのところへの用足しを言いつかり、姑との板ばさみにあって困ったとか。
このあたりは伝聞の伝聞なので、実際は商売が左前になったのは不況の影響を受けたのかもしれません。

父親が出入りの激しい人生を送ると息子はそれを見て堅気になるという典型のように、祖父は大学を出て(明治生まれで大学を出たということは実家も完全に傾いてはいなかったようです)今で言う国土交通省の技官になりました。
母親が秩父の方に遠足に行ったときに、父親が設計したトンネルがあったとか。
祖父は僕が生まれたときには既に他界していたのですが、とても生真面目な人だったらしく、関東大震災のときには祖母の実家(神田の万世橋の近く)を見舞いに自転車で熊谷からかけつけたそうです(仏壇の遺影を見るだけでもそんな感じの人でした)。

ということで祖父母の時代は公務員という安定した職業だったので、昭和恐慌の影響などもあまり受けずに生活苦、というのは感じなかったそうです。
また、第二次世界大戦のときも徴兵年齢にあたる人がいなかったので、母親の兄弟は軍需工場に借り出されたそうですが、兵隊にとられる人もいませんでした。

しかし好事魔多しではないのですが、昭和20年8月14日の夜に熊谷市が空襲にあい、母親の実家は全焼してしまいました。焼け跡で呆然とする中で玉音放送を聞いたそうです。
ただ市の中心部の住宅密集地では大勢の死者が出て、街中を流れる川には死体が積み重なっていたそうで、それに比べれば生きているだけで十分とも思ったとか(参照)。


一方父親は漁師の分家の息子として本家を手伝ったりしながら育ったそうです。
小学校に上がった頃は昭和恐慌の影響があり、米価下落の影響をもろに受けた小作農の子は弁当に生姜が一枚乗っているだけというのがほとんどで、商品にならない魚とはいえ現物の食べ物が手に入る漁師の家でよかったと子供心に思ったとか。

父親はその後海軍航海学校に進み(中学のときに軍事教練で教官から鉄製の模擬手榴弾で頭を殴られ脳震盪を起こして以来兵隊は嫌いだったそうですが田舎での進路は限られていたようです。陸軍を選ばなかったのは意地というよりは船がのほうがなじみがあったからだとか)、舞鶴の鎮守府(参照=海軍の司令部)で下士官見習いとして終戦を迎えます。
あと数ヶ月戦争が長引いていたら出撃する順番だったそうでその意味では幸運でした。
ただ下っ端は敵機の見張りの当番があり、見張り棟にいると、既に制空権を握っていた米軍の艦載機がたまにきて面白半分にする機銃掃射の恰好の標的になっていたそうです。

終戦後はまだ下っ端だったの父は舞鶴港が中国からの引揚船の受け入れ港になったためその作業のために2年ほど従事しました。
上級将校たちは終戦と同時に散り散りになり、それと同時に基地の隅においてあった古タイヤなども忽然と消えていたとか。父親も佐官に呼ばれ、司令官室にあった横山大観の画をはずして荷造りするのを手伝わされたそうですが、その画が誰の手に渡ったかは知らないそうです。

そういう父親も終戦直後は仕事があてがわれたために生活や食事の心配をせずにすみ、また引き揚げ物資のなかから毛布などを実家に「仕送り」していたそうです。


その後父親は親戚のつてをたどって東京に出てきて、(
当時はつぶれそうだったが)
今や大企業になった某社(参照)のお世話になったあと独立して町工場を始めました。


その後は戦後の経済成長に乗って一応順調にきたのですが、二十数年前、僕が大学生の頃に父親が原因不明のめまいを訴えて最後には1ヶ月ほど入院したことがありました。今思えば最近話題の男の更年期障害のようなものだったのではないかと思います。

しかし、一人親方でやっていた零細企業にとっては「親方」が仕事が出来ないのは即存続の危機につながります。
工場は借り物だし、家は抵当に入っている。親父が死んだり仕事に復帰できなかったら、などという前提での話は親にもしづにくいのですが、万が一のときは職人さんに退職金を払って会社をたたんで家を売って借金を返してチャラになれば御の字、貯金が残っていれば僕が就職した給料とあわせてどうにかなるか、などという計算を頭の中でしていたものです。

幸い父親はけろっと元気になり、数年前に会社も人に譲り、今では元気な隠居をしています。

今となってはホント、あれは何だったんだ、という話ですが、自営業者の脆弱性が骨身に沁みた経験でもありますし、サラリーマンになるとそのぬるま湯度合いがよくわかります(といってもそれにどっぷりつかって長いのですが(汗))。
セーフティネットは自助努力の及ばない状況の人に限定すべき、とか、企業の組織や意思決定は往々にして不合理だというような僕の発想はこんなあたりに根っこがあるのかもしれません。



ざっと我が家の100年を振り返ってみたのですが、1年間での日経平均株価の下げ幅が過去最大といってもたかだか△40%なわけで、家業丸ごと人に取られるとか焼夷弾で家が焼かれるとか機銃掃射にあうとかに比べれば屁みたいなものですね。

給料が下がるとかリストラされるとかいっても命までとられるわけではないですから。

「生きているだけで丸儲け」とはよく言ったものです。



「100年に一度の経済危機」というフレーズも「100年間みんなしっかり生き残ってきた」と前向きにとらえるのが大事ですね。



コメント (1)
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