一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『望みは何と訊かれたら』

2008-01-13 | 乱読日記

※ネタバレ注意。
 面白い本であることは間違いないので、興味のある方は私の妙な感想を読む前に本書を先に読むことをお勧めします。
 

僕は小池真理子の本はあまり読まないことにしています。
なぜかというと、女性心理の描写が、戦場から帰還した兵士が淡々と実際の戦場について語るような凄みを伴っているので、面白い反面ちと怖いからです。


本書は1970年代の学生運動の時代と現在をつなぐ話です。

重松清の朝日新聞の書評(全文はこちら参照)にあるように、本書は作者が同時代で経験した学生運動の総まとめ(「総括」というとややこしくなっちゃうので)的な感じがします。

主人公・沙織の長い回想の形で紡がれる物語の主要な舞台は、彼女が学生運動にかかわっていた1970年代前半――作家自らの青春時代とも重なるその時代を、小池真理子さんは、直木賞受賞作『恋』をはじめとする諸作で、「あの時代とはなんだったのか」のアプローチをさまざまに変え、深めていきつつ、繰り返し描いてきた。

主人公は学生運動のセクトのリーダーに惹かれ、その一員となりますが、セクトの活動は連合赤軍を思わせるような過激化に向かい、主人公がそこから脱出するまでが話の前半です(このへんの背景事情の知識がない方は昨日のエントリで紹介したサイトなどをご覧いただくと理解が深まると思います。)。

その後主人公は逃亡の果てにある男の部屋に匿われ、一歩も外に出ることなく自ら進んで男の「赤ん坊であり奴隷」として「淫靡で背徳的」な半年間を送ります。

そして現在、世間的にいう成功した家庭を持つ妻であり母になっている50代半ばの主人公がかつて自分を匿った男に再会します。

そして物語は男との再会を通じて主人公が当時の自分と現在に至るまでの30年間を自分に問いかける形で進みます。

 私も含め、あの時代、全共闘の運動に走った若者たちの心に、一瞬にしろ宿ったことのある何かについて、一時の気の迷いであり、ハシカのようなものである、と後年せせら笑うことは誰にでもできる。(中略)
 だが本当にそうだったのか、それだけだったのだろうか。そんなことをわたしは今になってもまだ思う。
 わたしにとって、大場(注、セクトのリーダー)の思想が魔物のように魅力的だと思えた時期があった。そこにはイデオロギーだけではない、文学があった。詩があった。それらが、一時期、私の精神の礎になってくれたことは否定しようのない事実なのだ。
 たとえ、死や殺戮を正当化するために文学が都合よく利用されたに過ぎなかったとしても、わたしの中にあった未熟さ、幼い情熱がそうさせただけのことだったとしても、わたしは大場の考え方、大場が口にする言葉、その表現に溺れた。


 たとえ吾郎が赤ん坊ごっこがしたかっただけの男だったのだとしても、わたしの抱えている事情を知りながら、彼がわたしを匿い、世話をし続けてくれた事実は消えない。
 それに、何よりも、わたし自身が、そんな彼と共有する時間を必要としていたのだ。少なくとも、そうした時間の中で確実に癒されてきたのだ。そこに、世間で信じられている友情や恋や愛はなかったかもしれないが、同じ巣穴に生きる獣同士としての絆は、確実に存在していたのだ。

そして34年ぶりに男と再会した、「本物の終盤はもう少し先とはいえ、これまで通りすぎて来た、どの場所よりも深く、仄暗く、不可思議でわからない場所に足を踏み入れなければならない年齢にさしかかった」主人公の描き方は、やはり小池真理子の凄みを感じさせます。


ところで、上の引用のようにその頃の学生は多かれ少なかれ全共闘の運動に影響を受けたのだとすると、主人公のようにその次に「溺れる」ものに出会わなかった普通の学生は、どうしたのでしょうか。
また連合赤軍事件の登場人物がその後の人生があったとしたら、どのような人生を送ったのでしょうか。
この小説の本筋とは別に、そんなことを考えてしまいました。


主人公が匿われていた部屋に、モルフォ蝶という大きな青い蝶の標本が飾ってあります。この標本が主人公のその時代の象徴として節目節目に言及されます。

「海外でモルフォ蝶を採集した時、どうやって日本に運ぶか知ってる?」
(中略)
「採った瞬間に殺すんだよ。胸を押しつぶして。一瞬のうちにね。でも、殺してしばらくすると、蝶の腹からは脂が出て、翅を汚しちゃうから、胸から下の部分を急いでもいでしまわなくちゃいけない。もいだやつをベンジンとかアセトンとかの瓶の中に漬けておいて、それ以外は三角に折ったパラフィン紙に入れて、そういう状態で運んできて、あとで標本にする時に、もいだやつとつなぎ合あわせる。だから、蝶の標本には、翅はそうでも、胸から下にはそいつのものではない、別の個体がくっついている場合が多いんだってさ」

作中ではこの標本はきれいな思い出として封印された過去の暗喩でもあるのですが、うがって考えると、多くの同世代の人が、全共闘運動自体を「甘くほろにがい過去」としてきれいな標本のように頭の片隅にしまってある、ということを小池真理子は言いたかったりもしたのかもしれません。

もっとも過去の出来事を現在の自分と隔離して美化する行為自体はこの世代に限ったことではありません。
そして、その美しい翅(思い出)自体も、実は腹(自分)と違った個体のものだったりする、というのも、往々にしてありがちだったりします。


だから小池真理子は怖いんだって・・・






コメント
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