南桜井駅の桜で思い出すことと、私の誕生日の秘密(2007.4.2)

2007-04-02 21:28:48 | Weblog

*今日(2日)は、花曇りで寒かったですね。

わが町、庄和町の庄和の文字は春日部市になって完全に消されてしまいました。
その前は、南桜井村だったのです(昭和28年まで)。
最寄り駅は、東武野田線の南桜井駅です。南桜井小学校、桜川小学校です。しっかり“桜”の字を背負っているのです。ということは、この地は、桜の名所でもあったのかと春になると思うのですが、誰も応えてくれません。
学校には、たくさん桜の木があるけど、全国どこにでもあることでしょう。

全国の“桜”の名を持つところはどうでしょうか。当地は、明治の世(明治22年)に、桜井村、南桜井村を名乗ったのです。誰が、どうして、“桜”をつけたのでしょう。

 *昨日(1日)、晴れの南桜井駅の桜

この町の桜で思い出す話を書きましょう。
私がこの地に家を買ったのは、1974(昭和49年)です。町に3階建ての建物はなく、ひょっとすると交通信号もなかったかもしれません。駅というより、停車場のイメージでした。
今の高架の駅になったのは、1983(昭和58年)3月17日です。

新しい駅の工事が進んでいた頃の話です。
“駅のきれいな桜を切らないで、残して下さい”という画用紙に手書きのポスターが貼られました。クレヨンで桃色の桜の木を書いたメッセージでした。
私は、東京のサラリーマンど真ん中時代でした。はじめて地域を考えた時、意識した時だったでしょう。
この町には、いい人が住んでいるんだと思ったのです。

何本かの桜の老木は切倒されました。
しかし、鉄道会社は、“ごめんなさい。しかし、若い桜の木を植えますから”というビラを貼って応えたのです。

日々取材感覚で写真を撮っていたのですが、そのポスターの写真は撮っていません。
そのかわり、1983年(昭和58年)3月17日、最後の日の、古い“南桜井駅”の写真があります。今のスポーツクラブから駅前交番あたりです。こちら側、今はさびれた南口の方が、当時は元気があって、小さいながらも駅前広場もあったのです。

*旧南桜井駅最後の日です。のどかでゆったりした日々でした。
*昭和58(1983)年3月17日。24年前の私の家族、5・3・2歳です。今でも、自転車にふたりの子を乗せてるお母さんを見るとひそかに応援するのです。この頃、見なくなったですね。

  【おまけ】

* どうでもいい話です。今日、4月2日は、マイ・バースディです。しかし、本当は4月1日生まれです。3,4日前の朝日新聞(3月30日付)がほぼ1ページを使って、4月1日生まれは、“前の学年、どうして?”という<大きすぎると思う>記事を書いていた。

*生年月日は、見えないほうがいいでしょう。

* 小学校の教師だった私の親父は、入学時に“一年の成長差ハンディ”のことを思って、4月2日に届けたのでしょう。(そういうことが許される時代が生年なのです。実は)

* ま、どっちでもいいのですが、卒業、人生の卒業のことを考えると、前の学年に入っていたら、違った人生になっていたかもしれません。むろん、それ以外のことの方がはるかに影響を与えるのですが。

* それより、ほんとうは、エープリル・フールの4月1日生まれだから、“ボクはだめなんだ”と思っていたのです。これほんとうです。


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