安野光雅さんのポスター集と今日の日経“私の履歴書”もうひとつの間違い?(2011.2.18)

2011-02-18 17:31:09 | Weblog

*岩崎書店 1998年5月発行

 一昨日、お天気がよかったので春日部市立図書館にでかけました。図書館に目的の本があっていくことはまずありません。まあ、暇を持て余していたのでしょう。いつも決まってみる本棚をさけて、立ち寄らないジャンルの本棚をさすらっていました。そして、いつものように10冊借りてきました。

 今日は、そのうちの一冊、“安野光雅のポスター”です。安野光雅さんの画は好きですね。でも画集を買ったり借りたりすることはありませんでした。

 ウチに戻って、自分でいれたコーヒーを片手に、ゆっくりめくりました。なかなか優雅な時!でした。
 表紙に、“安野光雅の・・・ポスター”に手書きで<本と芝居のポスター>と刷り込んであります。

*平和のポスター(国際平和年、1987年)

 ワタシ、自分のいるジャズバンドの小さいコンサートのポスターやプログラムを自分で作ります。センスは全くないのですが、誰も作らないからしかたなく自分で作るのです。
 ジャズのポスター、ジャズレコードのジャケットといえば、1950年代60年代から、ファンキー、モダンの意味から、ハイ―キーで、ブラック、モノトーンが定番です。

 私ら、スウィング・ベアーズは、明るいスウィング・バンド、ビッグバンドです。私に画才、デッサン技術がないから、よそ様のポスターをまねるのです。でも、今のポスターやプログラム、ジャズ雑誌の表紙は皆、写真をあしらっています。イラストやデッサンを使っているものは、まずありません。
 その昔は、みんな絵でした。それがアートな作品になりました。著名なアーティストの作品もたくさんあります。

 しかたなく、私も自分らのバンドの写真を貼り付け、文字をレタリングすることもなく、パソコンで適当に作ります。そこそこ作れます。
 でも、手書きのポスターに憧れます。安野光雅さんのポスター(作品集)を見ながら、ふっとため息をつきます。いいなあーー。

 1980年代、90年代の、こまつ座など、井上ひさしさん作の芝居のポスターが並んでいます。
 井上ひさしさんが、巻頭に言葉寄せています。<・・・・・行きつけの喫茶店や中華料理店にポスターを貼りにまわるのも、わたしの仕事の一つだが、どこでも、「あと5,6枚いただけませんか」と注文がつく。「どうしてもポスターがほしいと仰しゃる方がいらっしゃいましてね」・・・・・>

 私の作るポスターをあちこちに貼ってまわるのも私がやります。<ほしいと頼まれたり、剥がしてもっていかれる>ことは、ありません。決まって、私自身が剥がしてまわります。

  【おまけ】

*日本経済新聞2011年1月18日文化面

*このところ、新聞に載っていたぞ!とする話題が続いて気が引けますが、今日もそうです。

*今、日経の文化面(最終面)の私の履歴書欄は、安野光雅さんです。山口県津和野生まれ、今日は、昭和28年頃の話、東京学芸大学附属小学校の美術の先生です。国語の先生がお休みの時には、国語を教えた話でした。

*安野先生は、右下です。

*教科書を開いたら「日本の夜明け」で咸臨丸が主題である<・・・世界が激変していた。このことに気がついたのは、勝麟太郎、福沢諭吉たちだった。幅7m半、長さ50mの咸臨丸は、日本の希望と名誉をのせて荒波を渡り、東へ向かう。乗組員の中に25歳の福沢諭吉がいた。・・・・・長い船路を終えてサンフランシスコ湾に入っていった。それは安政7年2月26日のことだった>。そこまで読んで<鎖国をやめ、黒船が来てからたったの6年。早くも日本は船を造って太平洋にこぎだしている。あのとき日本の夜明けが来たのだ。何とすばらしいことではないか」とわたしの方がすっかり感動してしまった。

 *<でも子どもは「先生、咸臨丸は日本が造ったのじゃない。オランダから買ったんです」といった。わたしは絶句した>と安野先生。

*ワタシも、岡山県の山地の小学校で、この教科書で習った。よく覚えています。1,2年前にこのブログで書きました。安野さんの“私の履歴書”の文章は、当時の教科書とは違うでしょう。わたしの記憶では、<・・・麟太郎も諭吉もいた・・・>で、勝、福沢の姓は書かれていなかった。わたしは教わる側でしたが、わたしも“すっかり感激”したのです。その時代、わたしの先生も二十歳そこそこの安野先生と同じように、子どもらに接して下さったのでしょう。

*教科書に、この咸臨丸の絵が載っていたと覚えています。

*ところで安野先生、咸臨丸は日本が造ったいう間違いの他に、もうひとつ間違っていませんか?日本人だけで、燃える日本人の腕で、咸臨丸で太平洋を渡ったと教えたでしょう、あるいは今も、そうお思いではありませんか?ワタシも小学校以来ずーっと、そう思ってきました。

*ほんとうは、帰国するために同乗していたアメリカ人が操船したのです。帰りは日本人だけでしたが。ついでに、日本人だけで渡ったと、流布したのはのは、福沢諭吉その人だったようです。

*わたしの咸臨丸を書いたブログは、<ここをクリック>


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