昨日映画の日、「あおげば尊し」を観ました。
テリー伊藤が主人公の教師・光一役をすることで話題になっています。
光一の父親は厳格な元教師(加藤武)でしたが、がんで末期を迎え、最後のひとときを光一たちが自宅で介護することになります。
監督は、10数年前「病院で死ぬということ」でホスピスケアの話を撮った市川準。
例によってドキュメンタリー風の淡々とした演出で、静謐な画面を繰り広げていきます。
辛口コメンテーターのテリー伊藤も、普段とは全く別の顔を見せ、物静かで実直な教師・夫・息子を演じていました。
とても素朴で素人とは思えない好演、新たな才能を見せられた思いです。
ほとんど寝たきりだった加藤武も、セリフもない非常に困難な役柄を見事に演じており、感服させられました。
さて光一の学校では、死に興味を持つ生徒・康弘が、ネットで死体の写真を見たりしています。
見るなという光一ですが、何故いけないのか康弘に問われると、答えることができません。
やがて光一は、死というものを生徒に教えようと、子供たちを自宅に招いて病床の父の姿に触れさせます。
ここから死を学んでいくのかと期待したところ、子供たちは「キモイ」などと言い、結局以後は来なくなってしまいます。
それが現実的でリアルなのかもしれませんが、作品はそこを越えて行って欲しかったと思うのは無い物ねだりでしょうか。
康弘は実は幼いときに父親を亡くしており、父の葬儀を覚えていないということがずっと心の痛みになっているのでした。
しかし光一の父と過ごすことによって、その傷が癒えていくという、割と古典的な話になっていきました。
現代の子供たちにとって死はリアリティを失い、死んだ人も生き返ると思っている子も多い時代において、彼らが現実の死をどのように捉えていくか、という展開もありではないかと考えましたが、それも無い物ねだりでしょうか。
しかし市川準のカメラは、分からないものは分からないものとして、そのまま真っ直ぐに映し出したのかもしれません。
繰り返し挿入される、梅の蕾が次第に開いていく映像は、生と死の対比……というよりも、この世は生も死も一体なのだということを感じさせました。
ラストは市川監督らしからぬシーンで僕はいただけませんでしたが、感動した人も少なくなかったようです。
いずれにしろ、真摯な市川準の眼差しには非常に共感を覚え、目の前に指し示されたものを考えさせられるのでした。