(前の記事からの続き)
【 [13] 本論に直接関係するわけではないが、
『境界に生きた心子』 の書籍の帯には、
「激しい感情の荒波に巻き込まれ、 壮絶ながらも、
ピュアでドラマチックなラブストーリー」 とある。
販売促進が 帯の目的のひとつであるとはいえ、
こうした文言が 販促として成立するような 社会のありように対し、
私は次の二点において 疑問を投げかけたい。
ひとつめは、 患者あるいは なんらかのハンデを背負った者が
恋愛物語に登場するとき、 それをあたかも純粋なものとして 描こうとする点である。
ふたつめは、 いわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーを前提として
描こうとする点である。
出版社が、 こうした点を 読者に対して あからさまに要求している点において、
この社会における 恋愛の表象、
とりわけ なんらかのハンデを有する者との 恋愛の表象は 不問にされている。】
販促に対する社会への 発言ですが、 僕は筆者の立場から 述べさせていただきます。
ひとつめの点については、
BPDの人が純粋であるというのは 野崎さん自身も強調していることです。
ドラマや映画などで、 いわゆる “障害者もの” と言われる ジャンルがあり、
そのラブストーリーで 「ピュアな」 という うたい文句が付いたりしますが、
拙著の場合は それとは違うと思っています。
いわゆる “障害はあるけれど 心はピュア” というのではなく、
BPDの場合、 ピュアであるのも 障害の故なのだと言えます。
心子も 「現実離れした純粋さ」 でしたが、
それが障害となって 苦しむことになってしまうという、 厄介なものだったわけです。
それで僕は、 「境界に生きた心子」 が “障害者もの” と言われるのが、
どうしてもピンとこなかったものです。
僕にとっては “障害者の美しい話” ではなく、
苛酷で悲痛な 障害の話なのでした。
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
(次の記事に続く)