「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (10)

2015年03月01日 20時44分04秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 野崎さんの論文は以上です。
 
 BPDの人の生きづらさの原因を、 本人より社会に求める姿勢は、
 
 BPDの人に望みを 与えるものではないでしょうか。
 
 それは 僕も当初から述べている、
 
 社会に BPDの理解が広まることで、 本人や周りの人の 辛さが減っていく、
 
 という考えと 重なるものがあると思います。
 
 そもそも DSMのパーソナリティ障害の定義は、
 
 その人が属する文化から 期待されるものから著しく偏った 内面や行動、
 
 というものです。
 
 従って、 文化のほうが変われば、
 
 その人は パーソナリティ障害ではなくなるかもしれません。
 
 周囲が期待するものが変われば、
 
 パーソナリティ障害の行動や内面は 偏ったものではなくなり、
 
 本人も周囲の人も 生きやすくなっていくのではないでしょうか。
 
 そういう意味でも、 BPDへの正しい理解をし、
 
 適切な接し方が できるようになっていければといます。
 
 それは非常に難しく 長い年月もかかるわけですが、 それを求めていきたいものです。
 
 
 さて、 その他にも 野崎さんの論文に、
 
 順次 少しずつコメントを 書かせてもらいたいと思います。
 
【BPD患者の恋人である者 (中略) の 手記を使う利点としては、
 
 家族ほどには 利害関係が多くはないことが挙げられる。
 
(中略)
 
 親のほうも  「正しい理解を示すこと」 より
 
  「毎日の現実をまわすこと」 に追われ、 よき伴走者になれない場合が多い。】
 
 これはその通りだと思います。
 
 特に心子は、 普段はとてもチャーミングで、 楽しく気持ちよく過ごせました。
 
 (BPDは 人によって非常に異なり、
 
 常に脅威だけの存在になってしまう BPDの人も多いのですが。)
 
 心子と どんなに苛酷なことがあっても、 相殺して余りある魅力があり、
 
 それだから一緒にいられたのです。
 
 でも親には 恋人のような蜜月がなく (ある場合もあると思いますが)、
 
 同居していれば四六時中一緒で、
 
 息を抜くときもなくて 本当に大変なのではないかと思います。
 
【自分を持て余してしまう BPD患者当人とは違った目で、
 
 ときに外側から、 また ときに内側に迫って書くことが、
 
 恋人にはできるのではないだろうか。】
 
 という記述は、 ありがたいものでした。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)