「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (19)

2015年03月12日 19時59分54秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【 《心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。》
 
(中略)
 
言動の否定と生存の否定とを 結びつけてしまうのは、
 
BPD患者の責任でもなんでもない。
 
私たちの社会が、 正しいやり方で議論をし、
 
何ごとかを決定する段を ふまえないからこそ、
 
こうしたことが BPD患者の 〈生きづらさ〉 となって 現れてしまうのではないか。
 
つまり、 「主張の否定が人格の否定ではない」  ということを、
 
社会に根づかせる必要が あるということである。】
 
 僕は拙著で、 次のように記しました。
 
 《それらは程度の差こそあれ、 我々が誰でもやっていることである。
 
 (中略)
 
 我々は ボーダーの人のひな型だ。
 
 ボーダーの人は、 誰しもが持ち合わせている 普遍的な性 (さが) を、
 
 いとも鮮烈に見せつけてくれるのだ。》
 
  「言動を否定されると 人格も否定されたと感じてしまう」 のは、
 
 世の中の誰にでもあり得ることです。
 
 BPDの人は それが特に強烈で、 生存の消滅にまで エスカレートしてしまいます。
 
 しかし私たちは、 人から自分の意見を否定されても、
 
 自分の人格が否定されたわけではないのだ ということを、
 
 刻苦しながら学んでいかなければならないのではないか と考えます。
 
 それが人間としての成長でしょう。
 
 もちろん それを人に教えてもらうこと (教育) も必要で、
 
 社会が担う点もある とは言えるでしょう。
 
 でも それを社会に  「根づかせる」 という処までいくのは、
 
 かなり難しいのではないか という気がします。
 
 それは 人間の永いテーマであって、
 
 誰もが身に付けるというのは 現実的ではないのではないかとも思われます。
 
 我々は幾つになっても、 言動の否定を人格の否定と感じて、
 
 怒ったり傷ついたりしてしまうものです。
 
 例えば、  「不惑」 というのを 教えることはできますが、
 
 本当に不惑の境地になるのは 極めて困難なことです。
 
 いくら教わっても、 個人の資質や 長年の精進がなければならないでしょう。
 
 言動の否定と 人格の否定を結びつけるのが、
 
 個人の責任ではなく、 全て社会の責任だというのは、
 
 いささか言い過ぎではないだろうか というふうにも感じます。
 
 生きづらさは、 個人ではなく社会の問題だという 野崎さんの主張は重要ですが、
 
 それに重きが置かれすぎてしまうと、
 
 逆に 個人の責任を霧消させてしまうのではないか という懸念もないではありません。
 
 人間的成長には、 痛みも伴う個人の修養が 必要だと思うのですが、
 
 いかがなものでしょうか? 
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
コメント
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