「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (15)

2015年03月08日 19時53分15秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 次に、 以下の点について 考えてみたいと思います。
 
【 《ボーダーの人は 人格の 「核」 ができていないので、
 
 苦しみや悲しみに向かい合う力が きわめて弱いと考えられる。
 
 葛藤を冷静に見つめたり、 自省する自我ができていない。
 
 心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
 生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。》
 
(中略)
 
稲本はここで、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題を、
 
 「人格」 「メンタリティ」 「心の障害」 「自我」 といった
 
個人の問題に還元させてしまい、
 
 「適切な愛情」 の問題へと 帰着してしまっている。
 
(中略)
 
個人の問題に焦点を当てることは、 社会的不正義の問題を 霧消させてしまうのだ。】
 
 野崎さんは、 BPDの人の生きづらさを、
 
 BPD個人の問題より 社会の問題という立場で 主張しているため、
 
 特にこのように強調されるのでしょう。
 
 しかしこれは なかなか難しい命題だと思います。
 
 例えば、 身体障害者の場合なら、 周囲の人々の理解や協力があり、
 
 バリアフリーのインフラがあり、 制度も整っている社会であれば、
 
 身体障害者の人は 健康な人と比べて 日常に多少の不便はあるとしても、
 
 生きづらさを感じることはないでしょう。
 
 そのような社会は 誰もが反対しないだろうと言えますが、
 
 心の障害の場合、 それほど簡単にはいかないように思えます。
 
 人の資質にはあらゆるものがあり、 ひとつの性質が 長所にも短所にもなり、
 
 生きやすさにも生きにくさにもなり得ますから、
 
 何を基準にして 社会を変えればよいかというのは、
 
 容易に言えないのではないでしょうか。
 
 これに関しては、 どのような社会が望ましいか、 求めていくべきかということは、
 
 個々人の価値観によって 異なってくるだろうと思われます。
 
(次の記事に続く)
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕