「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

心子は求道者? (2)

2008年10月26日 20時26分30秒 | 新風舎から星和書店へ、新たな歩み
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/56111874.html からの続き)

 先月、 キリスト教では 洗礼を受ける前の人は、

 「クリスチャン」 ではなく 「求道者」 と呼ぶ という記事を書きました。

 でも心子は、 洗礼の前から 「クリスチャン」 と 自称していました。

 その辺りの事情を、 心子の教会の牧師先生に 伺ってみました。

 そして、 「クリスチャン」 とは、

 神の前で 「信仰の告白」 をした者を言うと 教えていただきました。

 「信仰告白」 というのは、

 自分の罪を悔い改めて、 キリストを信じると 誓うことです。

 信仰告白をした人は 洗礼を受けますが、

 洗礼は信仰告白の 外面的な儀式で、 神と人々の前での 表明だそうです。

 あくまでも 信仰告白が主体であって、

 それによって 主観的にクリスチャンとなり、

 神によって救われるという 確信を経験します。

 教会では通常、 イースター前後かクリスマス前後に 洗礼式を行なうそうですが、

 事情によって それを逃してしまうと、

 クリスチャンでありながら 洗礼を受けていない時期が 長くなることになります。

 心子も教会で 求道生活の時期を経て、信仰を決心して 告白をしたそうです。

 しかしながら 心子は、

 僕と付き合い始めた当初から 自分を 「クリスチャン」 と言っていました。

 少なくとも 1年半以上の間です。

 心子が信仰告白をした時期を 牧師先生に尋ねると、

 亡くなる2ヶ月ほど前 (11月頃) だったようです。

 12月のクリスマスに 洗礼式を受けたいと 希望していましたが、

 教会の都合で それは叶いませんでした。

 彼女が洗礼を受けたいと 僕に初めて話したのは、 9月末のことでした。

 でも そのずっと以前から、

 心子は 「クリスチャン」 だと 自認していたわけです。

 前の日記にも 書いたように、

 心子の敬虔さは クリスチャンに勝るとも劣らないものでした。

 彼女は 精神的には間違いなく  「クリスチャン」 だったのでしょう。

 洗礼を受けると 「神様の子になる」 というのも、

 彼女特有の 言い方だったのだと思います。

 新しい 「境界に生きた心子」 では、 そのようなことを簡単に説明して、

 あえて 「求道者」 の意味で  「クリスチャン」 と書くことにします。