てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第20回てつがくカフェ@ふくしま報告―知らなくてもよい真実はあるか?―

2013年12月01日 07時30分42秒 | 定例てつがくカフェ記録
  

第20回てつがくカフェ@ふくしまは、昨日agatoで開催されました。
参加者は20名。
毎回初参加の方々がいらっしゃいますが、なんと今回は愛知県からこのてつがくカフェを目的にお越し下さった方もいらっしゃいました。
他にも、このテーマには必ず参加しなければと、お仕事を早退して駆けつけて下さった方もいらっしゃいます。
ありがたいことです。
皆さんの本気度に身の引き締まる思いがします。

さて、今回は「知らなくてもよい真実はあるか?」がテーマです。
浮気問題から子供の取り違え問題など、普遍的な私的問題からニュースや映画で取り上げられる問題など、切り口は様々にありますが、やはりこのテーマに関する最近の最大の関心事は特定秘密保護法案でしょう。
そのあたりの展開をファシリテーターは予想していましたが、議論は意外にも原発事故をめぐる展開へ。
いや、意外でもありませんね。
福島で生活する以上、やはりこの問題は皆さんの意識下に沈滞していることをあらためて痛感させられました。

まず、カフェの前半は「真実」の定義をめぐって展開されます。
第一声は、伝える側と聴く側との「信頼関係」によって、伝えられるか否かは規定されるという意見から始まりました。
これに関しては具体的に医療現場での「告知」問題が取り上げられます。
相手に病状の真実を伝えるか否かはその人の性格を知っているか、日ごろから安心して意思疎通が図れているかによって、伝えられる真実は決まってくるということです。
これは伝えられるべき真実が、内容によってではなく人間関係によって決まるという視点を与えるものでした。

では、そこにおいて第三者はどのように関与しうるのか。
「告知」に関して当事者以外の第三者が知ることで、余計なトラブルを生み出す問題があるならば、誰でも知る必要がある真実などないのではないか、との意見も出されます。
それゆえ、真実を知るべきか否かについては「信頼関係」というよりも、むしろ「利害関係」ではないかという意見も出されます。
たとえば、芸能人の不倫や浮気ネタなどはたいていの人にとって興味本位以上の話ではありませんが、その夫婦や家族にとっては重大な問題になるでしょう。
すると、この真実をめぐっては「利害関係」の有無によって知る必要のある内容とその対象の範囲が確定されそうです。

また、この論点に関しては「公共性」の観点から「知るべきか否か」が問われるべきではないかとの意見も出されます。
たとえば、差別の問題に関して「総監」などを企業が入手する場合は、その社員(あるいは入社希望者)の出自という真実を知ることを欲望しているわけですが、それが「公共性」の観点から望ましいとは言えない問題があるというわけです。
ここでの「公共性」とは、人権問題の法的正当性を指していると思われます。
誰しも他者に知られたくないことを持ち合わせているものです。
個人情報保護法は、まさに公に晒されるべきではない個人情報を保護するための法律ですが、しかし「公共性」という言葉には「みんなにとっての」という意味も含まれています。
個人情報や私生活が公に知らされる必要かあるか否かを判定するのは非常美難しい問題ですが、「公共性」を帯びる情報という場合、それは人権のもつ法的正当性を内包しておかなければならないでしょう。
その意味でいうと、やはり「公共的には知らなくてよい真実はない」という意見も出されました。

これはいま話題の特定秘密保護法案の問題と接続するでしょう。
なぜ、国家は国民に知らせる必要のある/ない真実を決めるのか。
そこには実は「誰が知る必要があるか否かを決めるのか」といった問題が含まれています。
国家機密を国民に知らせるべき否かを決めるのは、国家(政府)です。
かつて患者に「告知」するか否かを決めたのは医師です。
そして、そこには相手のことを慮ってそれを決めるという「パターナリズム」的な態度が看取されます。
それは科学者などの専門家集団にもみられる態度ではないでしょうか。
まさに、ここには真実を知る相手に自己決定能力の有無によって、知らされるべきか否かは規定されるという考え方が含まれています。
由らしむべし、知らしむべからず。
ここには「人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい。転じて、為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない」という論語の思想が重なります。

ところで、そもそも「真実」とはなんでしょうか?
これまで取り上げてきた事例は、実は「事実」なのであって、「真実」とは異なるのではないか。
そのような問いかけとともに、ここであらためて「真実とは何か?」という論点に立ち返る問いが提起されました。
ある発言者によれば、「単なる情報や事実と真実は別ではないか」とのことです。
たとえば、放射能に汚染されたホットスポットがどこにあるとか、線量がどのくらいの数値なのかといったことは「情報」であって、「真実」とはそれ以上の何かだというわけです。
「それ以上の何か」とは何か?
その発言者によれば、それを知ることで自分の人生が大きく変えられてしまうような何かだと言います。
その意味で、「真実」とは単なる情報や事実以上に、「自分自身を変えられてしまうようなもの」だということですし、突き詰めるとそれは「ワタシにとっての真実」が「真実」に値するということになります。

それに関して別の参加者からは、「未来にわたって正しいもの」が真実に値するといいます。
たとえば、低線量被曝が安全か有害かは現時点において不明確であり、その将来において判明するものだとすれば「真実」に値するということになるでしょう。
これは逆に言えば、現時点では「真実はわからない」ということが、現段階での真実だということになります。
しかし、この意見からは、「真実」に値するというならば、現段階での認識や評価を超えて確立されるもの、あるいは耐久性のあるものだということになるでしょう。

また、別の参加者からは、医療現場の「告知」において「情報・事実・真実」の区別は明確化されており、ある病状の「情報・事実」を患者に伝えることと、その状態を評価することは別であることが示されました。
この病状の評価やどのような生き方を選択するかといった価値が、「真実」に相当するということです。
末期癌という事実を知らされ、その病状の情報を知り、絶望するか、それでもなお人生は生きるに値すると余命を生きるか。
その絶対的な答えは誰も持ち合わせていないからです。
医師は、その病状に関する情報は余命などの可能性を示すことはできるけれど、確定的な余命期間を示すことはできません。
ましてや、それが絶望や不幸を意味するか否かは、誰も知りえないものであり、それ以上にそれはその状況を生きる中で生成されるものでしょう。
ここでの「真実」が価値的なものを指す以上、それは誰にも知りえないものなのです。
ちなみに欧米では「余命〇か月」という提示の仕方はしないそうです。
その病状によって、その生の価値が特定されるわけではないからでしょう。
むしろ我々は生まれた瞬間に、誰もがすでに「余命〇か月」であるわけですから。

ここから、「もしかすると、「知らなくてもよい真実がはあるか?」という問いには、そこに「真実は一つしかない」という前提があるのではないか?」という指摘が為されます。
すでにみたように、「真実」が誰にも知りえないものとして措定されるとき、むしろ「真実」は一つに限定されなません。
すると、このテーマに設定されている「知るべきか否か」という区分そのものが、実は誤謬を含んでいるのではないだろうかということにも気づかされます。
というのも、そこには「真理は誰にも知られない」にもかかわらず、「真実を知る」主体(国家や意志、科学者)と知らない人々という区分が前提されているからです。
むしろこの問いそのものが、実は真実を独占する(とされる)立場から発せられた問いであるかもしれないという疑問も明らかになってきました(ちなみに、このテーマ自体は世話人二人が、いつものように酔っ払いながら決めたものにすぎないのですが…)。
しかし、「真実とは誰にもわからないものである」からこそ、むしろそれは万人にとって平等にあるということを意味するでしょう。

したがって、ここでは「情報・事実」は客観的に共有できるものであり、「真実」は主観的で多様であるものだということが確認されました。
では、「真実」とは他者と共有され得ないものなのでしょうか?
この問いは哲学史上、たいへん重要な問題でした。
その点で、たしかに哲学的(形而上学的)な普遍的真理の探究を議論として展開できそうですが、今回のテーマではそういったレベルで展開しない方がよいのではないかとの意見が提起されます。

これについて「真実とは現実とイコールであるとした方が話しやすい」との意見も出されました。
これは「真実とはその人にとっての真実である」という見方とは異なります。
「現実」は誰にとっても確認可能なものであり、その点で他者との共有が可能なレベルの「真実」ということになります。
この前提に立てば、それを知らせるか否かという議論は可能になるでしょう。

これに関して、たとえばニンジンが嫌いな子供に、ニンジンが含まれていることをわからないように調理した料理を食べさせることで、知らず知らずのうちにニンジン嫌いを克服させることはよいことではないか、という例が提示されました。
教育上のある目的を達成するためには、子どもに知らされない事実もありうるとのパターナリズムが確認されます。
いや、それはいかに子どもと言えど、自己選択の機会が与えられていないのは問題であるとの意見も出されます。
自分で嫌いなものであるけれど、必要だと判断したうえでニンジンを食べることを選択するか否かは、やはり教育上重要なことではないか、というわけです。

さらに、この問題は性教育の問題に関してその子どもは好奇心から知りたいことをパターナリスティックに知らせないというケースをどう考えるかという問題とも接続します。
自由主義的に考えればできる限りの情報と選択肢を子供に与えることで、自己選択できる力を育てることが大切になるでしょう。
一方、過激な性描写や映像に誰もが接続しやすいネット社会において、なんでもかんでも子供が知りたいからと言って知らせるべきではない情報もあるではないか、ということにもなります。

そこには本人が「知りたいか」/「知りたくないか」という点も重要になってくるでしょう。
では、これに関して福島の人々が「安全神話」を信じて原発を受け入れたという事実をどう評価すればよいのか。
そんな問いかけが為されました。
原発が100%安全だということはありえないことはみんな知っていたはずだけれども、その日の生活や貧しい地域にとっては必要だと考えれば、やむなくそれを選択したというのが実際ではないか。
いや、そもそも安全ではないということを知りたいと思っていなかったのではないか。
もちろん、3.11以前から原発の危険性に警鐘を鳴らしていた人々は少なからず存在していました。
が、それに耳を貸さなかった大多数の人々にとっては、「もしその真実を知ってしまえば不安が生じる」という点で、「原発は安全ではない」というのは「不都合な真実」だったわけです。
もっとも、皮肉なことに原発事故の発生時にSPEEDIのような情報が知らされない状況に直面すると、人々はいっせいに情報隠ぺいへの不信へ反転したわけですが。

それまで日常が安定しているときには目を向けなかった「不都合な真実」が、危機に際して目を向けざるを得なくなったわけです。
しかし、それでも人々は「真実」を知りたいと思う存在なのでしょうか。
さらにいえば、その真理に耐えられるものなのでしょうか
実は原発事故以後、その話題に触れたくないという声は日増しに大きくなっているようにも思われます。
自分の生活や日常を不安にさせるような情報には目を向けたくないという心理はわからなくはありません。
その意味で、「真実を知るには体力がいる」と発言された参加者がいます。
その発言者によれば、「パートナーの浮気の真実を知ることで傷つく」という点では、やはり真実を知るためにはある種の「体力」が必要だといいます。
「原発が危険だ」というケースも同じでしょう。
真実を知るにはある種の「体力」が必要だ。
その「体力」がないときに「真実」を知れば、その力に押しつぶされてしまうかもしれません。

しかし、だからといって、政府や専門家集団がそれをパターナリスティックに情報公開を制限することは間違いだといいます。
これに関して、原発事故が起きた際に、政府が情報を詳らかにしなかったのは、それによって生じるパニックを避けるためだったとも言われます。
しかし、これに対して「どのようなパニックが生じるかは、実は誰も知りえないことではないか」という指摘が為されました。
それを先取りして政府や専門家集団が真実を独占し判断を下すという態度は、やはり誤謬を含んだ判断だと言わざるを得ない。
なぜなら、くり返すようにそのことを知ることによって、誰がどう判断するかはそれらの立場の人々にはわからないという前提が共有されていないからだというわけです。
その点で、「真実」とは、やはり判断に関わる概念だということとして確認されました。
その上で、情報を保有する側は、できるだけその判断が適当に為されるように、できるだけ多くの情報を開示すべきだというわけです。
なぜ、その判断をなぜ自分たちでする必要があるのか。
ある参加者はこれについて、ケースバイケースであるとはいえ、それは「自分で納得したいから」という一点に尽きるからとのことでした。

たしかに真実を知ることで衝撃を受けたり、パニックになることはありえることでしょう。
その意味で真実と向き合うある種の「体力」が必要であることは否めません。
(パートナーの浮気の事実を受け入れるには、そのショックに耐えられる体力が必要だというわけです。)
しかし、それによって果たしてまずい結果になるのか、それとも好ましい結果になるのかは、誰にも知り得ません。
その結果がどう転ぶか誰も知りえない以上、それはその非知に晒されながらも、自分自身で納得した選択を引き受けたいというのが、真実に相対する人間の在り方のではないか、ということです。

その点で、情報を保有する側も事実を伝えることで、伝えられた側の判断を信じるというあり方しかできないのではないか、とも言います。
これに関して別の意見では、だからといって情報を無責任に投げっぱなしにしろということではありません。
情報を開示する側も可能な限り、その反応に対してベストの選択肢を同時に講じる努力・責任が必要だということです。
これに関しては、医療における「告知」が、医師が無下に患者の自己決定に責任を転嫁することを意味するわけではなく、それに寄り添い協働でその余命をどう生きるかを、共に考え抜く在り方が目指されていることからも理解できるでしょう。
ただし、それでもなお鍛えられるべきは情報の受け手の真実を知る「体力」であり、まさにそれは教育などにおいて不断に為されるべきものだろうとの意見も挙げられました。

実は、人間は知ることを欲する存在であるという命題は疑わしいのではないかという場面は、3.11以前/以後、さまざまな場面で見てきたような気がします。
3.11以前には生活や生命といった自己保存を優先し、「不都合な真実」に目を背けてきたという事実、というか責任があることを、私たちは今や否定できないでしょう。
では、3.11以後になり、その真実に目を向けられるようになったかといえば、現実の政治を見る限り、それはむしろ真逆へ向かっているとしか思えません。
このひどい現実を見て見ぬ振りするどころか、それを原子炉を石棺で糊塗するかのように「なかったことにしよう」としているようにしか見えないのです。
しかし、実はそれは政府レベルだけではなく、市政の人々のレベルでも同様な傾向があることは否めなくなっています。
東京などの哲学カフェに参加された方の話によれば、もはや県外では原発の話題には触れたくもない雰囲気があるとのことです(本当でしょうか?)。
いや、被災地の外部だけではありません。
内部でも、そのことを考え続けるのはとても疲れるし、周囲で話題にされることはほとんどなくなっている現状があります。
地元新聞紙の一面に「もう震災記事は載せないでほしい」という声があるという話を耳にしたこともあります。
「震災3年目の戦いはこの「忘却」との戦いだ」と語るマスコミ関係者の言葉が印象に残っています。
けっきょく、人間は現在の日常を壊すような真実からは、目を背けることの方が常態だと言わざるを得ないのではないでしょうか。

しかし、そのことが国家に危機的状況をもたらすと警鐘を鳴らしたのは、およそ2500年前に古代ギリシアで生きたソクラテスでした。
市民一人ひとりが真実に目を向けようとすることで、国家は自ずと善いものになると信じたソクラテスの思想と実践は、今こそ大切なことのように思われてなりません。
くり返しますが、ここでの真理とは、イデアのような唯一絶対で誰にも有無を言わせないような強制力を有するものではなく、「誰にも知られていない」がゆえに、皆で目を背けずに探求されるべきものとして措定されるような「真実」です。
それが、まさに今回のカフェでの議論で確認された「真実」でした。
個人的には、それは決して主観的な「真実」に止まるものではなく、普遍性を志向するものとして市民に共有される「真実」と考えてみたいのですが、いかがでしょうか?
それは、まさに3.11以後の日本社会のあるべき姿を「評価」・「判断」・「志向」できるものとして、多くの方々とてつがくカフェで考え合いたいのです。