今回のてつがくカフェは『茶色の朝』を材料に、「社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?」を問いました。
参加者は22名。
今回の参加者の年齢層も幅広く、20代から70代と各世代間のやりとりが行われました。
さて、『茶色の朝』は不穏な全体主義が、何気ない日常のなかでいつのまにか貫徹されていってしまう状況をみごとに描いた絵本ですが、まずはこの絵本の感想から述べるところから始まりました。
学校での授業参観の際に、子どもたちが誰も手を挙げて発言しないから、その理由を尋ねられたところ、「いじめられるから」と答えたことを思い出したという意見では、子ども同士で生じる権力を恐れることと、この物語が重なったといいます。
また、この絵本がフランスでベストセラーとなったことはすごいことだし、その背景には自分で考えることを教えるフランス教育の力があるのではないかと言う意見も出されました。
別の参加者からは、絵本の表紙に描かれる色とりどりの花の絵に、文化の多様性をイメージさせられたという意見も出されます。
実は身近なところで多様な文化はあることに、ほとんど私たちは気づかないのだけれでも、その多様さに気づくとき、もっと人は自由な考えが持てるのではないかといいます。むしろ、その違いに気づいくことで人の意識は成長し、発信の仕方も変わり、社会が変わっていくのではないかとのことです。
一方で、現首相が目指している国は北朝鮮ではないだろうかという不安を指摘する声もありました。
それによれば、北朝鮮のような独裁国家が貫徹してしまったとき、果たして社会を変えるなんてできるだろうか、だからこそ、そうなる前の市民による行動が大切なのではないかといいます。
さらに、この絵本の内容は「おもしろくない」と述べた参加者もいます。
それによれば、ここに描かれているのが自分たちの日常そのままであり、あまりのリアルさに「面白さ」を感じられないのだというわけです。
このリアルさとはなんでしょうか。
別の発言者は、たしかに政治的には現首相に対して批判的な意見を持っているが、経営者としてその見解を発信した場合、それが自分の経営にも影響を及ぼすと思うと、軽々に発信できないと言います。
そこには、誰に見られているかわからない、という薄気味悪さを指摘しているように思われましたが、この絵本が描く不気味さというか薄気味悪さとは、実はこの見えない不特定多数者の圧力のことではないでしょうか。
ところで、これらの意見には「権力」に対するイメージが二種類あることに気づかされます。
一つは国家と市民の関係のようなタテ軸としての権力イメージがある一方で、もう一つはいじめのように同輩集団に潜む水平軸としての権力イメージです。
議論では、しばしが市民の行動力が取りざたされましたが、それは往々にして対国家といった実体的な権力に対する行動を意味しました。
とりわけ、学生運動を経験した世代からは、官憲からの監視などと戦った経験であったり、対学校教師への抵抗の経験を経る中で、一度抵抗してみれば意外と相手の仕組みを見透かすこともできたり、必要以上に恐れる必要がないことがわかるなどと言います。
なかなか過激な意見が出されましたが、しかしこの絵本で描かれるのは、どちらかと言えば何気ない日常の中でどんどん権力に浸食されていく世界です。
すると、やはり目に見えない「空気を読むこと」や「世間」という存在が私たちの社会を変える力を奪っているという意見が問題の焦点になりそうです。
これについて、昨年の衆議院選挙や今夏の参議院選挙の際に、周囲の誰もが現政権の選択はありえないとの声しか聞こえないのに、なぜその真逆の選挙結果になってしまったのか理解できなかったという意見が挙げられました。
周囲の実体的な人々の声以上にいるらしい、「圧倒的多数派の見えない人たち」の存在の不気味さ。
いったい、そんな人々は本当にいるのだろうか。
いるとしたら、なぜその姿が見えないのか。
そんな眩暈というか、夢というか、世界の存在そのものまで疑ってしまうような経験をしたものです。
いや、それは実は日本国民のほとんどが二重人格なのだという結論に至ったという過激な意見を述べた参加者もいます。
それによれば、普段は政治批判をしておきながら、実は投票の際にはその批判とは真逆の候補者に投票しているのだ、と確信的に思うのだそうです。
このダブルスタンダードは何によるのか?
最終的にはカネや経済的な問題を握られたとき、人は何も言えなくなることと無関係ではないのかもしれません。
その生きるすべを奪われてまで危険な発言はできないでしょう。
いや、そうはいっても二重人格というのは言い過ぎかもしれません。
ある意見によれば、同じ意見をもつ階層と反対意見をもつ階層が分離しているだけではないかと言います。
多様性と対等性を保証する哲学カフェという空間でさえも、実はこの問題はあるかもしれません。
日本では極度に政治の話は、相手の思想を理解していないと軽々に発することができなう文化だと言われます。
だとすると、周囲での政治批判は井の中の蛙であり、現実は別の圧倒的多数の意見と自分の生活世界が乖離しているだけだといった方がよいのかもしれません。
では、そうした状況では社会は変わりようがないのではないか。
それに対して、多様性の経験を得るために外の領域へ出ていく必要があるのではないかという意見と、いや、むしろ自分たちの階層(領域)を出ていく必要はなく自分たちの領域で変えようとするだけで十分なのだという意見が出されました。
2日前に行われたエチカ福島では、ハンナ・アーレントを引き合いに「少数者でいることが大切なのであって、問題は少数者にすらなれないくらい断片化させられることだ」という意見を耳にしました。
自分の意見と対立する他者との対話、交流はもちろん大切ですが、この「少数者でいられること」という考えは以上の議論を考えるうえでも重要であるでしょう。
ところで、そもそもテーマに掲げられている「社会」とは何か?それを変えるとは何か?」という論点に立ち返ります。
家族、地域社会、国家など社会と言ってもどこに焦点を当てるかで、議論も変わってくるでしょう。
これについて、エチカ福島での議論を踏まえて「若者にとって社会がない」という問題をどう考えればよいのか、という問題提起が為されます。
たしかに、学生運動世代からすれば敵対する官憲であろうと実体的な国家=社会は立ち上がっています。
しかし、実は一見してそうした実体的権力を感じさせない今日の社会ではその意識が立ち上がるのは難しいのかもしれません。
それに対して「階級社会」の方がよほど社会を対象化しやすかったのではないかとも言います。
階級の違いが明白に自分の敵-味方集団を識別しやすいからです。
すると、今日、何でも平等化した大衆社会において、それは意識しにくいものなのかもしれません。
一方、昨今のヘイトスピーチのように、暴力性を帯びた排外主義やナショナリズムの風潮は、ある意味で国家を意識した行動だともいえます。
この敵対的な思潮によって立ち上がる国家=社会意識は、排他的=自閉的な意識の現れであり、言い換えれば「自尊心」を失った人々によって立ち上がる社会像と言えるかもしれないでしょう。
(これは「自尊心」というよりは「自己愛」の傷つきやすさなのではないか、と個人的には思うのですが。)
これは「日本人は社会をつくったことがない」という発言と関係するかもしれません。
あるいは、社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?という問いに対して、「どちらともYESだ」と答えた参加者は、国旗国歌法だって制定当時は罰することはしないとしたにもかかわらず、国家斉唱せず国旗に向かって不起立した公務員を厳罰に処する自治体も今では当たり前のようになっています。
当時は大丈夫といったにもかかわらず、時間の経過とともに変化する流れを止められないのは、現状を肯定する私たちの意識が為せる技なのかもしれません。
放射能に関してもそうでしょう。
放射能汚染がひどいあの時期から比べると、いまでも異常な数値であるにもかかわらず、当たり前のものとして私たちは生活しています。
県外から来た知人たちの驚きを見て、はっと我に返りますが、時間と日常とは実に自分を現実に適応させてしまうものです。
自分を変えるというよりも自分が変えられるとも言えるでしょう。
それが自分の中にある凡庸さというものなのでしょう。
慣れていくことの罪とでもいえましょうか。
巨悪に加担するとはこうした内実をもつように思われます。
一方、私たちが社会を変えるものでもある、とはいうものの現状においては危機感がないままいつの間にか社会は変わり、自分たちは何もできないという無力感に陥ってしまうとも言います。
では、何が社会を変えられるのか?
この問いが提起されると必ず出てくるキーワードが「教育」です。
戦時体制に現政権が進めようとしているなば、歴史において事実以上に、なぜ歴史が動くのか、その因果関係を丁寧に教えることが必要だという意見が挙げられます
それに対して、関係よりもなぜその選択が正しいのか、という大義名分を考えさせた方がいいという意見も出されます。
自分で考えることの大切さも説かれます。
しかし、これに対しては何でも教育で解決しようとするのは違うのではないかとの意見も出されました。
知性を育てて変わったためしはあるだろうか。
反知性主義的な意見ですが、昨今の学校教育への期待過剰という意見も出されました。
正しい知識を身につければ正しく変わるというのは、どこかの独裁国家の教育となんら変わらないじゃないか。
論理的にはその通りでしょう。
教育の矛盾は、いつでも「自分で考えなさい」という命題自体が、教師という権力からの命令に従うということにあります。
にもかかわらず、自分で考えることと歴史を知ることとのあいだに、どこか社会の自由な変革を期待する考えはいつの時代にもあるのはなぜなのでしょう。
この問い自体を問い直してみたい気がします。
今回は世話人の不手際で絵本自体の内容を深く吟味するということはできませんでしたが、いずれこの本を本deてつがくカフェにて扱ってみたいものです。
今回はこれまで最高齢の79歳の方にご参加いただけました。
私たちの社会には世代間の対話や伝達文化が失われていることを考えれば、この機会を再生していくことも社会を変えることの大切な要素だと思われます。
また次回多様な方々のご参加をお待ち申し上げます。
参加者は22名。
今回の参加者の年齢層も幅広く、20代から70代と各世代間のやりとりが行われました。
さて、『茶色の朝』は不穏な全体主義が、何気ない日常のなかでいつのまにか貫徹されていってしまう状況をみごとに描いた絵本ですが、まずはこの絵本の感想から述べるところから始まりました。
学校での授業参観の際に、子どもたちが誰も手を挙げて発言しないから、その理由を尋ねられたところ、「いじめられるから」と答えたことを思い出したという意見では、子ども同士で生じる権力を恐れることと、この物語が重なったといいます。
また、この絵本がフランスでベストセラーとなったことはすごいことだし、その背景には自分で考えることを教えるフランス教育の力があるのではないかと言う意見も出されました。
別の参加者からは、絵本の表紙に描かれる色とりどりの花の絵に、文化の多様性をイメージさせられたという意見も出されます。
実は身近なところで多様な文化はあることに、ほとんど私たちは気づかないのだけれでも、その多様さに気づくとき、もっと人は自由な考えが持てるのではないかといいます。むしろ、その違いに気づいくことで人の意識は成長し、発信の仕方も変わり、社会が変わっていくのではないかとのことです。
一方で、現首相が目指している国は北朝鮮ではないだろうかという不安を指摘する声もありました。
それによれば、北朝鮮のような独裁国家が貫徹してしまったとき、果たして社会を変えるなんてできるだろうか、だからこそ、そうなる前の市民による行動が大切なのではないかといいます。
さらに、この絵本の内容は「おもしろくない」と述べた参加者もいます。
それによれば、ここに描かれているのが自分たちの日常そのままであり、あまりのリアルさに「面白さ」を感じられないのだというわけです。
このリアルさとはなんでしょうか。
別の発言者は、たしかに政治的には現首相に対して批判的な意見を持っているが、経営者としてその見解を発信した場合、それが自分の経営にも影響を及ぼすと思うと、軽々に発信できないと言います。
そこには、誰に見られているかわからない、という薄気味悪さを指摘しているように思われましたが、この絵本が描く不気味さというか薄気味悪さとは、実はこの見えない不特定多数者の圧力のことではないでしょうか。
ところで、これらの意見には「権力」に対するイメージが二種類あることに気づかされます。
一つは国家と市民の関係のようなタテ軸としての権力イメージがある一方で、もう一つはいじめのように同輩集団に潜む水平軸としての権力イメージです。
議論では、しばしが市民の行動力が取りざたされましたが、それは往々にして対国家といった実体的な権力に対する行動を意味しました。
とりわけ、学生運動を経験した世代からは、官憲からの監視などと戦った経験であったり、対学校教師への抵抗の経験を経る中で、一度抵抗してみれば意外と相手の仕組みを見透かすこともできたり、必要以上に恐れる必要がないことがわかるなどと言います。
なかなか過激な意見が出されましたが、しかしこの絵本で描かれるのは、どちらかと言えば何気ない日常の中でどんどん権力に浸食されていく世界です。
すると、やはり目に見えない「空気を読むこと」や「世間」という存在が私たちの社会を変える力を奪っているという意見が問題の焦点になりそうです。
これについて、昨年の衆議院選挙や今夏の参議院選挙の際に、周囲の誰もが現政権の選択はありえないとの声しか聞こえないのに、なぜその真逆の選挙結果になってしまったのか理解できなかったという意見が挙げられました。
周囲の実体的な人々の声以上にいるらしい、「圧倒的多数派の見えない人たち」の存在の不気味さ。
いったい、そんな人々は本当にいるのだろうか。
いるとしたら、なぜその姿が見えないのか。
そんな眩暈というか、夢というか、世界の存在そのものまで疑ってしまうような経験をしたものです。
いや、それは実は日本国民のほとんどが二重人格なのだという結論に至ったという過激な意見を述べた参加者もいます。
それによれば、普段は政治批判をしておきながら、実は投票の際にはその批判とは真逆の候補者に投票しているのだ、と確信的に思うのだそうです。
このダブルスタンダードは何によるのか?
最終的にはカネや経済的な問題を握られたとき、人は何も言えなくなることと無関係ではないのかもしれません。
その生きるすべを奪われてまで危険な発言はできないでしょう。
いや、そうはいっても二重人格というのは言い過ぎかもしれません。
ある意見によれば、同じ意見をもつ階層と反対意見をもつ階層が分離しているだけではないかと言います。
多様性と対等性を保証する哲学カフェという空間でさえも、実はこの問題はあるかもしれません。
日本では極度に政治の話は、相手の思想を理解していないと軽々に発することができなう文化だと言われます。
だとすると、周囲での政治批判は井の中の蛙であり、現実は別の圧倒的多数の意見と自分の生活世界が乖離しているだけだといった方がよいのかもしれません。
では、そうした状況では社会は変わりようがないのではないか。
それに対して、多様性の経験を得るために外の領域へ出ていく必要があるのではないかという意見と、いや、むしろ自分たちの階層(領域)を出ていく必要はなく自分たちの領域で変えようとするだけで十分なのだという意見が出されました。
2日前に行われたエチカ福島では、ハンナ・アーレントを引き合いに「少数者でいることが大切なのであって、問題は少数者にすらなれないくらい断片化させられることだ」という意見を耳にしました。
自分の意見と対立する他者との対話、交流はもちろん大切ですが、この「少数者でいられること」という考えは以上の議論を考えるうえでも重要であるでしょう。
ところで、そもそもテーマに掲げられている「社会」とは何か?それを変えるとは何か?」という論点に立ち返ります。
家族、地域社会、国家など社会と言ってもどこに焦点を当てるかで、議論も変わってくるでしょう。
これについて、エチカ福島での議論を踏まえて「若者にとって社会がない」という問題をどう考えればよいのか、という問題提起が為されます。
たしかに、学生運動世代からすれば敵対する官憲であろうと実体的な国家=社会は立ち上がっています。
しかし、実は一見してそうした実体的権力を感じさせない今日の社会ではその意識が立ち上がるのは難しいのかもしれません。
それに対して「階級社会」の方がよほど社会を対象化しやすかったのではないかとも言います。
階級の違いが明白に自分の敵-味方集団を識別しやすいからです。
すると、今日、何でも平等化した大衆社会において、それは意識しにくいものなのかもしれません。
一方、昨今のヘイトスピーチのように、暴力性を帯びた排外主義やナショナリズムの風潮は、ある意味で国家を意識した行動だともいえます。
この敵対的な思潮によって立ち上がる国家=社会意識は、排他的=自閉的な意識の現れであり、言い換えれば「自尊心」を失った人々によって立ち上がる社会像と言えるかもしれないでしょう。
(これは「自尊心」というよりは「自己愛」の傷つきやすさなのではないか、と個人的には思うのですが。)
これは「日本人は社会をつくったことがない」という発言と関係するかもしれません。
あるいは、社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?という問いに対して、「どちらともYESだ」と答えた参加者は、国旗国歌法だって制定当時は罰することはしないとしたにもかかわらず、国家斉唱せず国旗に向かって不起立した公務員を厳罰に処する自治体も今では当たり前のようになっています。
当時は大丈夫といったにもかかわらず、時間の経過とともに変化する流れを止められないのは、現状を肯定する私たちの意識が為せる技なのかもしれません。
放射能に関してもそうでしょう。
放射能汚染がひどいあの時期から比べると、いまでも異常な数値であるにもかかわらず、当たり前のものとして私たちは生活しています。
県外から来た知人たちの驚きを見て、はっと我に返りますが、時間と日常とは実に自分を現実に適応させてしまうものです。
自分を変えるというよりも自分が変えられるとも言えるでしょう。
それが自分の中にある凡庸さというものなのでしょう。
慣れていくことの罪とでもいえましょうか。
巨悪に加担するとはこうした内実をもつように思われます。
一方、私たちが社会を変えるものでもある、とはいうものの現状においては危機感がないままいつの間にか社会は変わり、自分たちは何もできないという無力感に陥ってしまうとも言います。
では、何が社会を変えられるのか?
この問いが提起されると必ず出てくるキーワードが「教育」です。
戦時体制に現政権が進めようとしているなば、歴史において事実以上に、なぜ歴史が動くのか、その因果関係を丁寧に教えることが必要だという意見が挙げられます
それに対して、関係よりもなぜその選択が正しいのか、という大義名分を考えさせた方がいいという意見も出されます。
自分で考えることの大切さも説かれます。
しかし、これに対しては何でも教育で解決しようとするのは違うのではないかとの意見も出されました。
知性を育てて変わったためしはあるだろうか。
反知性主義的な意見ですが、昨今の学校教育への期待過剰という意見も出されました。
正しい知識を身につければ正しく変わるというのは、どこかの独裁国家の教育となんら変わらないじゃないか。
論理的にはその通りでしょう。
教育の矛盾は、いつでも「自分で考えなさい」という命題自体が、教師という権力からの命令に従うということにあります。
にもかかわらず、自分で考えることと歴史を知ることとのあいだに、どこか社会の自由な変革を期待する考えはいつの時代にもあるのはなぜなのでしょう。
この問い自体を問い直してみたい気がします。
今回は世話人の不手際で絵本自体の内容を深く吟味するということはできませんでしたが、いずれこの本を本deてつがくカフェにて扱ってみたいものです。
今回はこれまで最高齢の79歳の方にご参加いただけました。
私たちの社会には世代間の対話や伝達文化が失われていることを考えれば、この機会を再生していくことも社会を変えることの大切な要素だと思われます。
また次回多様な方々のご参加をお待ち申し上げます。