てつがくカフェ@ふくしま

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てつがくカフェ@ふくしま報告3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月31日 12時53分39秒 | 〈3.11〉特別編記録
大変遅くなりましたが、3月9日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは4名の計18名の方にご参加いただきました。









・まず最初第一部ということで、永幡さんご提題いただきます。永幡さんは、ご存知の方はご存知だと思いますが、ほぼほぼ毎回のようにこの「てつがくカフェ@ふくしま」に参加してくださっている常連さんなんですけど、僕の同僚で福島大学の共生システム理工学部において、音響学の専門家でいらっしゃって。3.11の後ですね、ずっと福島市内のあちこちで録音を続けていらっしゃいまして。その音をずっと13年間分撮り溜めてきた記録をもとに今日は提題を発表いただきたいというふうに思っています。

・皆さん、こんにちは永幡です。座って喋るのに慣れていないので、授業とかといても立って喋ってるので立ったまま進めて行きたいなと思っています。今日のタイトルは「沈黙の春ー再考 サウンドスケープの視点から」となります。今映しているスライドの写真っていうのは、これから色々と出てくるところですので、今ここで説明するのは省いていきなり話に入ってきたいんですけれども、話を始めるにあたって多分サウンドスケープという言葉をあんまりご存知ない方の方が多いのかなと思います。ちなみにサウンドスケープという言葉にピンと来る方ってどれぐらいいらっしゃいますか?会場の中でも、極めて少数派なのでまずはその説明からにしたいと思います。「サウンドスケープ」というのは音響学の分野で定義されている言葉なんですけれども、「あるコンテクスト(背景、状況、場面、文脈)の中で個人または人々が近く経験・理解した音環境」という風に、とてもややこしい定義になってます。何故こんなややこしい定義するかというと、古くから音響学の中でその音の問題を考える時に、あんまり人がどう聞いて音を聞いているかどうかってことを意識することなく、機械で測るとか、そういうようなことで、なんか音の環境の事はちゃんと分かったような気になってる時代が長く続いたので、それじゃまずいでしょっていうところから、こういうふうに人が一体どうやって音の関係を聞いてるんだろうかってことにも注目しましょうということで立ち上がったからです。あんまりこの話を長くするとややこしくなってしまうので、ごく簡単なところだけ一言二言説明しておくと、人あるいは人々と音環境との関係性を読み解く分野なんだって思っていただけると、大きな間違いはないだろうと思っています。その音環境っていうのは、物理的な特徴の把握をすることを主としますし、人々っていう部分に関しては心理的あるいは社会的な反応なんかを記録しながら、それらの関係性を見て行きましょうというような研究を普段はしています。このサウンドスケープという概念は元を辿るとマリー・シェーファーという人、2021年に亡くなってしまいましたけれども、カナダの作曲家の方が作り上げた概念だと言えます。言葉自体は、それより前に使ってる人がいるっていう報告が最近色んな所でされてるんですけれども、多分それはそうなんだろうと思いますが、実際にその言葉を学術的な意味づけを初めて付けた人は誰から言うと、このマリー・シェーファーに遡るのが正しいだろうと思ってます。この方はカナダを代表する作曲家でなんですけれども、1965~75年ぐらいまでサイモンフレーザー大学というカナダのバンクーバーの隣町だったと思いますけれども、バンクーバーから電車に乗って行くことができますが、そこで教えて方です。この人の主要な著書というのが『チューニングオブザワールド』は日本があって、日本語では『世界の調律』と訳されておりますが、こんな本です。今、手に入りやすいのはこの一番右側に文庫版と言っても分厚い文庫なので、すごく値段は張るんですけれども、それだけの読む価値はある本だと僕は思っていますけれども、そういう本があります。この話にも少し後で出てきますけれども、もう一個の大事なキーワードは『沈黙の春』です。『沈黙の春ー再考』というタイトルで出てますから、『沈黙の春』なんですけれども、『沈黙の春』っていうのはレイチェル・カーソンという人が書いた本のタイトルです。新潮文庫から出版されていて、今日会場で持ってきてるのは、古いので表紙が違ってますが、中身はどちらも同じです。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』というのは、国際的に環境問題に関心が高まったきっかけの一つと言われていて、いわゆる名著と呼ばれているような本の一冊です。『沈黙の春』というのを読んだ事ある方ってどれぐらいいますか?結構皆さん読んでますね。でも、読んでらっしゃる方もいるだろうと思ったので、持ってきていて今日の話を進めるのに、必要な所だけ少し朗読したいかなと思います。冒頭の部分なんですけれども、「明日の為の寓話」というふうにタイトルが付いています。
(以下朗読部分)


1.明日のための寓話

 アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つ
だった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘
がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のか
すみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松
の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見え
つかくれつ音もなく駈けぬけた。
 
 道を歩けば、アメリカシャクナゲ、ガマズミ、ハンノキ、オオシダがどこまでも続き、野花
が咲きみだれ、四季折々、道行く人の目をたのしませる。冬の景色も、すばらしかった。枯れ
草が、雪のなかから頭を出している。その実やペリー(奬果)を求めて、たくさんの鳥が、やっ
てきた。いろんな鳥が、数えきれないほどくるので有名だった。春と秋、渡り鳥が洪水のよう に、あとからあとへと押し寄せては飛び去るころになると、遠路もいとわず鳥見に大勢の人たちがやってくる。釣りにくる人もいた。山から流れる川は冷たく澄んで、ところどころに淵をつくり、マスが卵を産んだ。むかしむかし、はじめて人間がここに分け入って家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を建てた、そのときから、自然はこうした姿を見せてきたのだ。

 ところが、あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままで 見たこともきいたこともないことが起りだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれかが病気になったという話 でもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとへと出てくるのに、とまどうばかりだった。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気分が悪くなり、2、3時間後にはもう冷たくなっていた。

 自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に
思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、
死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の
春だった。いつもだったら、コマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声
で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つし
ない。野原、森、沼地 みな黙りこくっている。

 農家では鶏が卵を産んだが、雛は孵らず、豚を飼っても、何にもならなかった。小さい子ば
かり生れ、それも 2、3 日で死んでしまう。リンゴの木は、溢れるばかり花をつけたが、耳を
すましてもミツバチの羽音もせず、静まりかえっている。花粉は運ばれず、りんごはならない
だろう。

 かつて目をたのしませた道ばたの草木は、茶色に枯れはて、まるで火をつけて焼きはらった
ようだ。ここをおとずれる生き物の姿もなく、沈黙が支配するだけ。小川からも、生命という
生命の火は消えた。いまは、釣りにくる人もいない。魚はみんな死んだのだ。

 ひさしのといのなかや屋根板のすき間から、白い細かい粒がのぞいていた。何週間まえのこ
とだったか、この白い粒が、雪のよう、屋根や庭や野原や小川に降りそそいだ。

 病める世界 新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間みずからまねいた 禍いだった。
 
 本当にこのとおりの町があるわけではない。だが、多かれ少なかれこれに似たことは、合衆
国でも、ほかの国でも起っている。ただ、私がいま書いたような禍いすべてのそろった町が、
現実にはないだけのことだ。裏がえせば、このような不幸を少しも知らない町や村は、現実に
はほとんどないといえる。おそろしい妖怪が、頭上を通りすぎていったのに、気づいた人は、ほとんどだれもいない。そんなのは空想の物語さ、とみんな言うかもしれない。だが、これらの禍いがいつ現実となって、私たちにおそいかかるか 思い知らされる日がくるだろう。

 アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いっ
たいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。

(レイチェル・カーソン著『沈黙の春』新潮文庫、新潮社、1974 年。)

というふうに今読んだところなんですけれども、「春が来たが沈黙の春だった。今は物音一つしない。野原は森、沼地、皆黙りこくっている」というところからこのタイトルがきてる訳ですね。これ、なんで鳥も何でもかんでも、皆が黙りこくってしまったか。これは化学物質、農薬とかですね。それをバンバン使うようになって、その結果として生き物がみんな死んでしまった。実際にアメリカで今みたいにすごく本当にそういうような町がある訳ではないんだけれども、タイトルは「明日の為の寓話」と付いてましたけども、色んな所で起きている事をどんどん足し合わせていって、なので全てが同時に起こっているような所ってのはその当時もなかったようですけれども。なんだけれども、一個一個の話っていうのはあるような感じで。今のままほっとくとこうなるよってことを警告したそういう本です。その化学物質で生き物がいなくなった春を描写したので、そこから始まってる。コレだけ今日認識して頂けると、この後の話に付いていけるのかなと思っています。それと、録音を聞いてもらう前にもう一言だけ付け加えてお話しておきたいのがサウンドスケープについて。僕の分野の研究分野において、「沈黙」というキーワードは結構大事なキーワードなんだよってことを人と話したいと思います。『世界の調律』という本の中では、「沈黙(サイレンス)」というのが一番最後の一個前の章にあります。その「沈黙」について色々語られていますが、そこから大事なことを抜き出しておくと「心と精神の落ち着きを取り戻すためには、静寂な時間が必要だ」てのが、「沈黙」を考えるとキーワードです。もう一個のキーワードとして、大事なことは「生命と繋がる概念であり、死と繋がる否定的なものと捉えられる傾向にある」と。だから今の『沈黙の春』というのは、正に後者の方のパターンで書かれている。なので、この『沈黙』には二つの意味があるんだという事をまず最初にお話ししておきたいと思います。今日この後、20分から30分ぐらい音選んで聞いてもらおうと思ってるんですけれども、原発事故後に福島市内の定点観測をずっとしていました。大体同じ場所で音を取っています。その音がどのように変わっていったのかっていうのを、是非聞いていただきたいなと思ってるんですけれども。録音を始めたのが2011年5月1日です。なぜ5月1日かというと、その前日まで福島大学で避難所やってました。避難所を手伝っていてなんか気分が録音しようという気分になってなかったっていうのが一つ。あともう一つは、僕の研究室が酷いことになっていて、今日レコーダー持ってきてますけどこれの風防が見つからなかったんですね。この風防がないと風がちょっと吹いたらもう音は取れません。現実的に取れなかったというのも実際あります。「なんでもっと早く取らなかったんだ」というのを色んな事で色々言われたりするんですけれども、そういう二つの事情から録音始めたのはその辺になってしまいましたという所です。この後、いくつか音を選びながら聞きたいと思います。


~録音再生/10分休憩~

・それでは、第二部の「てつがくカフェ」を始めていきたいというふうに思います。第一部で永幡さんから「福島サウンドスケープ」をご提題いただきました。『沈黙の春』ということに関しても色々とお話いただいたんですが、それを踏まえて13年間振り返るとということで、まずは聞いてみての感想でも構いませんし、最後に永幡さんからいくつか今日皆さんに考えていただきたいテーマみたいなこともやらせていただきましたので、それらもぼんやりと考えていければというふうに思っております。

・今「小鳥の森」を意識してなかったという話が出たんですけど僕はですね、小鳥の森いつ行ったんだったかな?多分(震災から)一年経ってないぐらいで行った記憶があるんですけども、あそこだけはちょっと異様に怖かったっていうか。行って凄く「何かあるなぁ」と感じるぐらい。だから、見えない放射線を感じるぐらい僕はなんか凄くここに長居してはいけないと感じるぐらい。 なんか恐ろしさがあったかなというのは、それを急に思い出しました。

・永幡さんの説明をお聞きして、単純な感想なんですけどタイトルに書いてる「耳で振り返る震災原発事故後の13年間」ということなんですが。これ「耳で13年間を振り返るって難しいなぁ」と思って。結局の所、音だけでは中々理解できないかな。「サウンドスケープだけでは理解しづらいなぁ」と思って聞いてました。要するにサウンドスケープ=音風景と(動画を)見合わせて聞き合わせないと中々理解できないのかなという。そうすると、単純に耳で振り返ると書いてあるんだけど、中々それは理解できなかったかなというのが私の感想。それと「小鳥の森」について今ちょっと話題になってましたけど、私は原発事故前から偶に「小鳥の森」に行ってたんですが、画面に出て小鳥たちの鳴き声が聞こえる場面も出てきましたけど。原発事故前も別に人の出入りってあんまり無かったような場面にしょっちゅう出くわしてたんです。私の行く時間帯が悪かったのかもしれませんが。ということで、人はあんまり出てなかったし、それに対して小鳥は盛んに囀っていたという状況は変わってなかったから画面を見てて、そういう印象を受けました。ただ、場面を見て音と重ね合わせて理解しますと。やっぱり原発放射線の線量が高くて、人手が少なくなったと。その辺はよく理解できたかなと思いますし、あとコロナ禍が始まってからも、あまり外出しなくなったということで人手が少ない場面があってそうだったなという感想です。

・あの「小鳥の森」に関しては、多分時間帯によるんだと思います。あそこはやっぱり学校の研修で行くとか、そういうのが多かったりとか、元々子どもたちがよく行くような場所。子連れで行くような場所だったので、そういう時間帯に行くと常に誰かいるんだけれども。あんまり子どもが来ないような時間帯を狙っていけば確かに。元々少ないと言えば少ないのかもしれないですね。

・貴重な資料ありがとうございました。あんまりよく理解してないので、単純な質問なんですけども、『沈黙の春』だと動物のようなものが沈黙するじゃないですか。水俣も猫から沈黙していくじゃないですか?今回福島の資料を見た時におり、「アレ?沈黙してないじゃないか」というか。「えっ?全然沈黙してないじゃん?」という感じで思ってて。でも、人間は沈黙してるんですけど、そのギャップっていうか。どういう風に捉えればいいのかなっていうのが、今日見せてもらった資料をレイチェル・カーソンの『沈黙の春』とか水俣と比較してギャップが捉え方を教えていただければなと思ったんです。

・基本自由に捉えてもらったらいいなと思ってるんですけれども。僕自身の捉え方としては、レイチェル・カーソンが言ってる『沈黙の春』とは違った沈黙が起こってるんだと思っていて。コロナで起こった沈黙もやっぱりレイチェル・カーソンの言っている事とは違った事が起こっていて。なので、20世紀に起こった『沈黙の春』、あるいは「沈黙」というものと、21世紀に我々が今経験している「沈黙」というのは同列では語れないだろうなと僕は考えています。

・さっきの『沈黙の春』というのは、あれは実際にあったこととまた違うんですか?じゃあ、まず質問で人間もアレだし動物もアレだって『沈黙の春』で、最初説明あったんですけど、あれは実際にあったことなのかな?まずそれ一つね。そして、あとこちらの方も言った通り、私も一番最初「小鳥の森」とか、人はね、あの出てこないんだけども、結局原発もやっぱり科学のアレですよね。それなのに小鳥とか、そういうの沢山鳴いているでしょ?だから、こちらの方も言っているように、私もそこで「アラっ?」て一瞬思ったんですよね。あの原発の近くでなくて、「小鳥の森」はかなり離れているから、鳥は色々飛ぶからね。だから私、最初の一つとあと二つ目の質問は相馬市の原発があった所は、そこの野生の鳥というのはどうなのかしらなと思ったの。「小鳥の森」みたいに騒々しく鳴いてるのかなって。それ2つ目の質問なんですよね。そして、あくまでも。鳥はあくまでも野生だからね。野生だから別にその辺はどうなのかな?例えばだよ、鳥かごに常にね、野生じゃなくて鳥屋さんに売ってる鳥かごにね、売ってるペットセンターで売ってるね鳥をどこを原発の放射線の高い所に置いたら、その辺は野生の鳥と変わるのかな?って。この三つね、私それさすごくね感じたの。その三つの質問ちょっとお願いします。

・まぁ、答えられる方がいらっしゃったらどなたでも。永幡さんいかがでしょうか?

・レイチェル・カーソンの『沈黙の春』はあれ、あのままのことが起こっている所はまず無いと著者自身が書いていて。ただ、色んな所で起こったことを重ね合わせて行くとああいう風な事に、最終的になってくんじゃないかっていう問いかけで書いています。なので、完全に全てが黙りこくった所というのは無いと思います。野生の生き物がどうかという話については、多分世話人とかあれだよね相馬市に近いから、後で補足してもらえればと思うんですけども、基本的に少なくとも耳で聞こえる範囲では鳥は減ってないんではないかと思います。色んな仕事で相馬市の方に行くことあるんですけれども、別に普通に鳥は鳴いているし。あとチェルノブイリの時の記録っていうのは、これもCDが出てるんですけども、やっぱり録音した人が居て。チェルノブイリの場合は、本当にもうチェルノブイリのかなり近くで録音してるんですけれども、やっぱり生き物の声はちゃんと聞こえてるし、むしろチェルノブイリに関しては、人が完全にあの日本以上にその広い範囲に渡って住むことが出来なくなったので、なんか野生の王国になってるというような報告もあるようですから。その意味で例えば、遺伝子レベルで何が起こってるかとかっていうのを厳密調べ始めたら、もしかしたら何かあるのかもしれないですけども、少なくとも耳で聞こえる範囲、目で見える範囲で見る限りにおいては、生き物は生きてますよね。それは間違いないと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

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