前回は中沢新一「精霊の王」と一緒に旅をしたようなものだけれど、今回はさらにさかのぼって、藤森栄一さんの「銅鐸」と旅をしてみたくなりました。宿をとった霧ヶ峰高原の自然を見るにつけ藤森栄一さんの努力がしのばれます(彼をモデルにした新田次郎「霧の子孫たち」という小説もぜひ)。
「茅野市高部の神長官邸は、上社造営後、大祝やその他五官が、前宮をはなれて、諏訪市中洲神宮寺に移転しているのに、神長だけはこの地をはなれなかった。
これも、この土地についての、動くことのできない一つの理由があってに相違ない。
すなわち、神長守矢氏は、御左口神自然信仰の司祭であり、一切の土地にたいする権限を所有していた。おそらくは縄文期ごろから弥生期へかけての祭政体であったろう。弥生式鹿角印を持って御符を発し、鉄鐸をもって、何かの誓約をした。おそらく、一番考えられる誓約は土地と農耕とにかかわるものであるのだろう」(藤森栄一「銅鐸」)以下すべて同著。
「天の窟戸の段だけについて考えると、忌部氏の「古語拾遺」には、鉄鐸が高鉾とともに活躍しているのに、記紀にはぜんぜんでてこないのは、その辺の事情をつたえたものであろう。それは、同じ司祭の、二つの氏族の祭祀方式の相違を意味する。どちらが古いか、新しいかはしばらくおいとくとして、のち、日本国の祭祀の中におかれたのは、中臣氏のもっていた記紀方式に則ったものだったことはたしかで、忌部氏の方式は滅びさったのである。すなわち、全日本的にいうと、鐸が誓約的呪力をもっていた、弥生時代いらいの祭政方法の最後の信奉者忌部氏が、事実上抹殺されたのである。
以降、余命を保ちえたのが、じつに諏訪大祝祭政下における神長守谷氏と、その御左口神の祭式、小野神社に残った御左口神祭政の残骸の二つだけだったわけである」
「その神の呪術の、一切をいたすのが神長で、御左口神の総本山ともいうべきものが、じつに神長邸内の御頭郷社宮司社なのである」
どこに寄るでもなく、諏訪について真っ先に駆けつけた場所が神長官屋敷でありました。この建物は藤森照信さんの設計。
「茅野市高部の神長官邸は、上社造営後、大祝やその他五官が、前宮をはなれて、諏訪市中洲神宮寺に移転しているのに、神長だけはこの地をはなれなかった。
これも、この土地についての、動くことのできない一つの理由があってに相違ない。
すなわち、神長守矢氏は、御左口神自然信仰の司祭であり、一切の土地にたいする権限を所有していた。おそらくは縄文期ごろから弥生期へかけての祭政体であったろう。弥生式鹿角印を持って御符を発し、鉄鐸をもって、何かの誓約をした。おそらく、一番考えられる誓約は土地と農耕とにかかわるものであるのだろう」(藤森栄一「銅鐸」)以下すべて同著。
「天の窟戸の段だけについて考えると、忌部氏の「古語拾遺」には、鉄鐸が高鉾とともに活躍しているのに、記紀にはぜんぜんでてこないのは、その辺の事情をつたえたものであろう。それは、同じ司祭の、二つの氏族の祭祀方式の相違を意味する。どちらが古いか、新しいかはしばらくおいとくとして、のち、日本国の祭祀の中におかれたのは、中臣氏のもっていた記紀方式に則ったものだったことはたしかで、忌部氏の方式は滅びさったのである。すなわち、全日本的にいうと、鐸が誓約的呪力をもっていた、弥生時代いらいの祭政方法の最後の信奉者忌部氏が、事実上抹殺されたのである。
以降、余命を保ちえたのが、じつに諏訪大祝祭政下における神長守谷氏と、その御左口神の祭式、小野神社に残った御左口神祭政の残骸の二つだけだったわけである」
「その神の呪術の、一切をいたすのが神長で、御左口神の総本山ともいうべきものが、じつに神長邸内の御頭郷社宮司社なのである」
どこに寄るでもなく、諏訪について真っ先に駆けつけた場所が神長官屋敷でありました。この建物は藤森照信さんの設計。
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