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吉原御免状 散歩

2007年01月15日 17時25分18秒 | 観光
 誰です、国立競技場のピッチをキリング・フィールドなどと称する輩は?
 あ、ぼくか。
 それも二日続き。土曜日のラグビーはそれでも前半の連続3トライで虐殺は済んだが、サッカーはやってしまいましたなあ。6-1。そのスコア、野球じゃないのよ、サッカーよ。
 さ、気を取り直して、吉原御免状散歩に出かけましょう。

 一番最初に吉原の廓ができたのは、今の日本橋人形町あたり。お富、切られ与三で知られる「与話情浮名横櫛」の強請の舞台である玄冶店、あのあたりに相当する。
 このあたりの路地を散歩すると大変面白い。

 路地裏の中の路地裏といった感じの路地裏。三光新道の標識がある。落語が好きな人ならぴんと来るかもしれない。「百川」で百兵衛さんが間違って飛び込んで行くのが、長谷川町三光新道の鴨池先生のところだ。「百川」は舞台である料亭「百川」だけでなく、なんとこの鴨池先生も実在の人物であったらしい。
 さて、百川で魚河岸の連中がくだを巻いているのだが、魚河岸は今の築地ではなく、日本橋にあったからだろう。

 さらにこの近くには「椙森神社」がある。ここは「宿屋の富」や演者によっては「富久」での富くじの舞台になっている。この界隈には、歌舞伎や落語に出てくる地名や旧跡に溢れていて、散歩するのがとても楽しいところだ。

 後ろ髪引かれる思いで人形町をあとにして、東に向かう。深川である。

 深川雲光院。阿茶局の墓が有名だが、吉原の創設者庄司甚右衛門の墓もここにあるのだ。
 それまでグレーだった女郎屋を幕府の規制のもとに営業することによって、逆にお墨付きを得ようとしたのだ。もちろんそんなことが簡単に通るとは思えない。彼の並々ならぬ努力があったこと思われる。その甲斐あって、1617年江戸中に散らばっていた女郎屋が一カ所に集められ、江戸で唯一公認された「吉原」が誕生したのだ。
 とは言うものの、営業時間は午後6時まで。おまけに料金は馬鹿高い。これでは一般庶民は遊べない。そのため客の多くは武士だったという。


 庄司甚右衛門の墓。
 明暦の大火ののち、吉原は浅草の北に移動させられる。これが映画や時代劇でなじみの深い吉原だろう。こちらに移ってから夜の営業が許可されるようになったのだ。
 実は、落語その他でよく見聞きするくせに吉原へ行ったことがない。自転車で地図を見ながら初めて行ってみた。


 ここに大門と見返り柳があったのだろう。今は見る影もない。
 その後、このあたりを走ったら、どのビルの入り口にも一人ずつ男性が立っている。昔で言うところの若え衆なんだろう。だが、現代ではかなり異様な光景だ。意気地なしなので、足早に立ち去ったのでありました。

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