日露戦争(1904~05)後、戦没者八万人余りを慰霊する為に建設された護国塔(明治44年築 1911)。 原案設計は伊東忠太によるもので、当初は花崗岩積みで高さ約34メートルの塔を建てる計画でしたが、建設途中で設計の変更が行われ、鉄筋コンクリート造で高さ約18メートルの塔に改められました。 変更の理由としては、石積みでは強度的な不安が大きかったからとも云われます。 階段手摺りの阿吽(あうん)の獅子像や柱頭飾りの馬の上半身など、伊東忠太らしい東洋風の意匠が随所に見られ、一際異彩を放っていました。 静岡県袋井市久能2915-1 08年07月中旬
日露戦争(1904~05)後、戦没者八万人余りを慰霊する為に建設された護国塔(明治44年築 1911)。 原案設計は伊東忠太によるもので、当初は花崗岩積みで高さ約34メートルの塔を建てる計画でしたが、建設途中で設計の変更が行われ、鉄筋コンクリート造で高さ約18メートルの塔に改められました。 変更の理由としては、石積みでは強度的な不安が大きかったからとも云われます。 階段手摺りの阿吽(あうん)の獅子像や柱頭飾りの馬の上半身など、伊東忠太らしい東洋風の意匠が随所に見られ、一際異彩を放っていました。 静岡県袋井市久能2915-1 08年07月中旬
ネットで見つけた下見板の公会堂。 山奥の辺鄙な場所、超マイナー建築という事で私が見に行くべき(?)建物と思い訪問してみました。 明治13(1880)年築の旧伊久美銀行の建物だそうですが、本当にそんなに古いの? 静岡県島田市伊久美1019 08年07月中旬
大正6(1917)年築の素朴で小さな教会。 この地域出身の神父が、静岡カトリック教会の仏人・ドラエ神父に請うて土地を求めこの地に建てたものだそうです。 白く塗られた窓枠や十字架が眩しくて印象的。 建設当時は小さな農村でしかなかったこの場所も、今では第二東名の大きくて無粋なコンクリートの橋脚が他を圧するように聳え立つ姿が目につきます。 静岡県静岡市葵区谷津380 08年07月中旬
※現役の教会ですので見学の際はご配慮願います。
茶畑の中に建つレトロな公民館(昭和10年頃築 1935)。 妻面に印された「萩」の一字が、地域の誇りを掲げているかのようで逞しげ。 今は東萩間公会堂? 静岡県牧之原市東萩間433-3? 08年07月中旬
旧大井上理農学研究所(大正8年築 1919)。 「巨峰」の生みの親として名高い大井上康(1892~1952)が、葡萄研究所として自ら設計し、東京から大工を連れてきて建てさせたという白壁の洋風建築。 現在は大井上に関する学術資料の保管場所になってるようですが、丘というか小山というのか、徒歩では簡単に辿り着けないような高台の上に建っていました。 苦悩の研究の末、昭和19(1944)年(現地案内板の年数に従います)に新品種の交配に成功し、ここから見える富士山に因んでこのブドウを「巨峰」と名付けたというエピソードが泣かせます。 静岡県伊豆市(旧中伊豆町)上白岩2000 06年12月下旬
大正3(1914)年頃に建てられた個人医院兼住宅の建物。 大正7(1918)年頃に西側部分(正面向って左手の、一歩下がった所)、昭和13~14(1938~39)年には玄関から右側の部分と、2度の増築がなされ現在のような形態の建物になったそうです。
以前からあった明治期の町家を洋風に改築したともいわれるだけに、内部には通り土間があり、タタミ敷きの和室が基本になっています。 建物前面だけでなく、背面にも大きな窓が開いているので中は結構明るい感じ。 近江八景や富士松原が描かれた欄間飾りも見事なもので、家具に嵌めこまれた(?)大きな金庫などもありました。 玄関入ってすぐの階段を上がれば、2階はレトロな診療椅子が置かれた治療室や年季の入った技工室などになっています。 建物は旧東海道に面しているので、この治療室から見えた往時の蒲原の町並みは、患者さんにとっても楽しみの一つだったのかもしれませんね。
現在、建物は無料で公開されてますが、もっと詳しく知りたければ邸内で売っている『旧五十嵐邸物語』がお勧めです。 建物の説明は勿論、修復や保存についての作業の一端が写真付きで解説されているので大変分りやすいものになっています。 静岡県静岡市清水区蒲原3-23-3 07年02月上旬他
※おまけ こちらはすぐ近くで見つけた楳田医院。 大正7(1918)年の建物(『静岡県の近代化遺産』では大正初期築になっています)。
春野中学校(旧気多中学校)の構内に残る赤レンガの建物(明治22年築 1889)。 ここは日本における木材パルプ産業の発祥地で、王子製紙のパルプ工場が建設された場所。 この建物もその時に製品倉庫として建てられたもので、後に事務所として改造転用されました。 工場内にはレンガの建物が何棟か建てられましたが、時代の流れと共に消え現存するのはこの赤レンガのみ。 現在は春野町歴史民俗資料館となり、王子製紙の資料などが保存されているようです。 静岡県浜松市天竜区春野町気田556-1 07年06月下旬
紀州徳川家により建てられた明治の洋館(明治32年築 1899)。 『日本の洋館 明治篇Ⅰ』によると、元々は南葵文庫(なんきぶんこ)という私設の図書館として東京の麻布に建てられたものでしたが、関東大震災によって東京帝国大学の図書館が全焼すると、その再建の為に書籍は全て寄贈し、この建物は徳川家の別邸として大磯に移築されたそうです(昭和8年 1933)。 住宅化されるのにあたって玄関の位置が中央から左にずらされ、1階にはサンルームを増築。 建物の名称もヴィラ・デル・ソル「太陽の館」とつけられました。 その後人手に渡った建物は昭和40年代に解体の危機もあったようですが、現在は熱海に再移築され高級ホテル及びレストランとして相模湾を見渡す地に建っています。
小さいながらも雰囲気のある洋館なのですが、建物の全貌を海側からじっくり見るのはなかなか難しいです。 というのも、目の前の道路は自動車専用道路(熱海ビーチライン)になっていて、歩行者用の路側帯が無くガードレールの外はすぐ海。 おまけに渋滞から解放された車がすごい勢いで飛ばしてくるので写真を撮るのも結構命懸けです。 車列が途切れたのを確認したらガードレールを飛び越え道路の向こう側まで全力でダッシュ。 その場にはとても留まれないので、写真を撮ったらまた直ぐに舞い戻るという機敏な動きが必要かと思います(汗)。 やっぱりここはホテルに一泊して、優雅にお庭から建物を愛でるという事が良さそうですね。 静岡県熱海市伊豆山759 06年12月下旬他
※写真が一部大きくなります。
※おまけ 入口の鉄製の門扉はヴォーリズの設計だそうですが、これの事でしょうか。 大正7(1918)年築の南葵楽堂(現存せず)に付随して作られたもののようです(『静岡県の近代化遺産』)。
ダンカンとエミリー、マッケンジー夫妻の住居として昭和15(1940)年に完成。 ダンカンには喘息(ぜんそく)の持病があった為、海辺からも程近く、心地良い海風が通り抜ける松林の中を選んで自宅を建てたといわれます。 設計はW・M・ヴォーリズ。 スパニッシュスタイルのいかにも彼らしい建物で、立地条件を考慮して土台には木材を使用せずコンクリートを打ち(潮風による腐食対策)、通風を良くする為の工夫や生活しやすい各種の配慮もされているそうです。
日米開戦の為、一時期日本を離れた夫妻でしたが昭和23(1948)年には再来日。 ダンカンは静岡特産のお茶の輸出に尽力し、その拡大・発展に大きな役割を果たしましたが、昭和26(1951)年に持病の悪化の為死去。 一方、残されたエミリーはこの地に留まり、私財を投じ恵まれない子供達に数々の救いの手を差し伸べました。 そんな彼女には昭和34(1959)年、長年の功績が認められ静岡市の名誉市民第一号に選ばれるという栄誉が授けられています。 昭和47(1972)年に高齢の為アメリカに帰国したエミリーは、翌年にカリフォルニア州のパロアルト市で永眠(享年86歳)。 慈愛に満ちた生涯を母国で終えました。 夫妻が残したこの場所には、2人が日本に託した想いが、時を経た今なお深く刻み込まれているかのように感じられます。 静岡県静岡市駿河区高松2852 07年02月上旬
※HOMAMとは夫妻が名付けたこの屋敷の愛称。 ペガサス座の星ホマム(「勇者の幸福な星」の意)から取ったもので、二人は塔屋から見える星空を好んでいたそうです。
ガレージにはエミリーが愛用していたキャディラックが保管されています。
今日からちょっとお休みを頂きます。 更新・コメントも滞ると思いますので御了承願います。
明治20(1887)年に建てられた非常に質素な教会。 明治13年に地元の有力者・森氏の私財によって建てられた小会堂は既に無く、こちらが2代目の聖堂のようです。 ここと姉妹教会である修善寺ハリストス教会同様に、内部には山下りんのイコンも残っているそうです。 静岡県伊豆市(旧修善寺町)柏久保324 07年08月上旬
※おまけ こちらは日本基督教団 修善寺教会。 それほど古くない建物かもしれませんが、近くで見つけたので載せておきます。
※ 2つとも現役の教会と思われますので、見学の際は充分な配慮をお願い致します。
地元・浜松出身の中村與資平(よしへい)の設計により昭和5(1930)年に完成したスペイン風の建物。 浜松の銀行集会所及び手形交換所として使用されました。 白壁が大変美しい建物なのですが、正面北向きなので日中は逆光になってしまいます。 現在は浜松市の所有となり、今後の活用に向けて模索中のようです。 静岡県浜松市栄町3-1 07年06月下旬
昭和2(1927)年築。 現在は天竜ウッドワーク事業協同組合として、ヒノキの学習机などを生産する工房として活用されています。 静岡県浜松市天竜区石神1133-1 07年06月下旬
明治13(1880)年築の擬洋風木造校舎。 唐破風(からはふ)・海鼠(なまこ)壁といった和と、アーチ窓・バルコニーといった洋のテイストが絶妙に融和された外観、そして左官の名工・入江長八(1815~89)によるコテ絵が施された内装と見所が多い建物。
設計・施工は地元の大工だった高木久五郎と菊地丑太郎。 彼らは三島学校、沼津学校(共に現存せず)といった県内に既に建てられていた洋風学校を見学・参考にし、この学び舎を作りあげました。 正面玄関の「岩科学校」の額は時の太政大臣・三条実美の書によるもので、その上の龍は長八がノミを手に持ち彫ったものと伝わります。 2階・西の間の欄間には長八の手による千羽鶴(丹頂鶴と真鶴、全部で138羽)が青空に飛翔する姿が見られ、漆喰コテ絵の傑作をつぶさに堪能する事が出来ます。 この建物は中学校や幼稚園として昭和50(1975)年まで使用されました。 敷地内には明治8(1875)年築の旧岩科村役場が移築されており、みやげ物などが売られています。 静岡県松崎町岩科(いわしな)北側442 06年12月下旬
旧静岡三十五銀行本店(昭和6年築 1931)。 2面にある4本の円柱がいかにも銀行建築らしく重厚に見せています。 昭和18(1943)年に静岡三十五銀行と遠州銀行が合併して現在の静岡銀行が設立されました。 静岡県静岡市呉服町1-10 07年02月上旬他
大正13(1924)年築の日本最古の(←ミカエルさんの指摘で違う可能性大)RC造の寺院。 静岡県のHPにガウディ風寺院とありますが、確かにかなりのインパクトで一度見たら忘れられません。 創建当時ここの檀家さん達はいったいどんな気持ちで眺めていたのかちょっと気になるところですが、天女?やハトさんもいる、こういう小技の効いた建物は私は大好きです。 静岡県静岡市清水区柏尾97 07年02月上旬